下羽田の里山は万葉の時代に額田王が歌を詠んだ蒲生野の一角にあり、下羽田が属する平田地区には、歴史ロマン溢れる見所が数多くあります。
以下、ひらた夢回議・散策ガイド からの転載です。
(1)瓶割山城跡|上平木町
瓶割山は、上平木町と近江八幡市長光寺町・長福寺町の境界に位置し、標高234.5mの小高い山である。戦国期には長光寺城(別名、瓶割山城)が築かれていて、今も一部に石垣や井戸跡などが残っている。元亀元年(1570年)城主柴田勝家が六角承禎の軍勢と戦ったとき、将兵に水瓶の水を飲ませた後、その水瓶を割って士気を鼓舞させ大勝を得たことから、瓶割山と名付けられたといわれている。
(2)日吉神社|上平木町
明治41年(1908年)、上平木町内各所に祀られていた八王子神社・若宮神社・彦名神社が合祀され日吉神社と称し、現在地に安置された。
八王子神社は宝亀元年(770年)雷火のため焼失したと伝えられている。当神社には鬼面が二面あり、うち一面は桃山時代に作られ、市の指定文化財となっている。現在は、県で管理保管されている。
(3)西国三十三箇所観音霊場|上平木町
昭和4年(1929年)瓶割山の東の一角に、世界平和・子孫繁栄等を祈願して、地元及び近郷有志の方々により、西国観音霊場として40体の石仏が安置された。5月の法要には子供の巡礼姿が見られ、参詣の人々で終日賑わいを見せている。
(4)御澤神社|上平木町
聖徳太子が農事奨励のため、荒地であった現在地一帯を開墾、その用水として3池(すみ池・白水池・にごり池)を造り、そのほとりに市杵嶋媛命を祀られた。この池が御澤神社のシンボルとなり、色々な伝説を生み出した。また湧出する水は、古来名水の一つといわれ、今も拝戴者が後を絶たない。5月になると「藤の花」で連日賑わいを見せている。
(5)若宮神社跡|上平木町
若宮神社は、明治に日吉神社に合祀された。現在は畝傍山陵(神武天皇)遥拝所と野神さんが祀られている。日吉神社御旅所が設けられ、日吉神社の春の大祭には、神輿渡御が行われる。また、グラウンドゴルフの練習や子供の遊び場としても利用されている。
(6)福生寺|上平木町
浄土真宗仏光寺派で、本尊は阿弥陀如来である。江戸時代に寺院が全焼したため、寺歴等は不明である。八日市市史によると、「享保7年(1722年)3月近江国神崎郡三俣村、徳田宗左衛門尉藤原家次作」の銘文の入った梵鐘や、天明8年(1788年)に作られた喚鐘があったと記されている。平成18年3月に書院と庫裏が改築された。
(7)浄光寺|上平木町
最澄に師事した、延暦寺三代座主の圓仁(慈覚大師)により開基されたと伝えられる。正保4年(1647年)の奥書には本尊の阿弥陀如来は慈覚大師の作とされている。当時は天台宗であったが、350年程前に、浄土真宗(木辺派)に変わっている。
(8)石樋の碑|上平木町・平田町
江戸時代初期のもので花崗岩製。昭和47年(1972年)の江岸川沿岸土地改良事業施工の際、旧江岸川の堤防の下から発掘された。長さ2mの花崗岩の断面をコの字型に加工し上下に組み合わせて用いられ、全部で8組あり全長16mであった。
その昔、代官役所の役人立会いで堤防の下を埋樋され、東側から西側に水を流し、集落・川に取り込んで用排水兼用として活用された。
(9)大宮神社|平田町
主祭神は天照大神であり、境内社は三社神社である。宝亀3年(772年)淡海三船の奉斎した神社と伝えられる。国史現在社である牟佐上神社とはこの神との説がある。元亀の兵火で焼失し史料はないが、現在の棟札及び石燈籠の銘文によると虚空蔵菩薩を祀っていたことがわかる。
(10)長楽寺|平田町
臨済宗妙心寺派。
開創は奈良時代、霊亀年間(715年~717年)といわれる。本尊の木造薬師如来座像は平安後期の作で国指定重要文化財である。
(11)蛭子神社|柏木町
主祭神は事代主命であり、境内社は清大神社である。創祀年代はわからないが石燈籠には享保2年(1717年)2月8日とあり鰐口には天保4年(1833年)6月とある。清大神社の祭神は飛鳥井栄雅と伝えられ、栄稚の隠棲地である水口町の柏木神社と深い繋がりがあるようである。
7月の初旬には虫送りの行事が行われている。
(12)正寿寺|柏木町
臨済宗妙心寺派。
元禄13年(1700年)徳昌寺湖南和尚の隠居寺として中興された。しかし境内にある正応4年(1291年)の銘をもつ宝篋印塔や本尊の木造千手観音菩薩立像(南北朝時代作)から推して、古くは天台系寺院であったと考えられる。
(13)光明寺|下羽田町
天照山と号し浄土宗。本尊は阿弥陀如来。建立は文治4年(1188年)、開山は善阿国師。寺伝では元亨年間(1321年~1324年)、知恩寺八世善阿が当地に草堂を造ったのに始まるという。木造薬師如来坐像(平安時代)、木造大黒天立像(室町時代)はともに国指定重要文化財である。
(14)剱神社|下羽田町
白鳳2年(673年)、近江の将、羽田君矢国が勧請する。素盞嗚尊を主祭神として雪野山中腹に鎮座。明治に入って村社となり、現在地に移され今に至る。境内の森は市の保護樹林に指定され、その中には珍しい中国原産のコウヨウザン(広葉杉)が植えられている。
(15)明神池|下羽田町
下羽田町の西北、明神山の麓に明神池がある。この区域は剱神社に関係するといわれる。池の水は湧水で澄み、剱神社社守は、当年にこの清水で身体を清浄して1年の勤めの無事を祈願する。また、池の水は下流域の農業用水にも利用され、井神・岩井大明神が近江八幡市三郷(岩倉・千僧供・馬淵)によって祀られている。
(16)歌坂|下羽田町
雪野山山麓に平成5年(1993年)建立の歌碑がある。
「暮れにきと 告るそまこと降晴る 雪の野寺の 入相の鐘」平安中期の女流歌人和泉式部は、安妃山「鐘送り坂の峠」で雪野寺の鐘を聞き、この歌を詠じたとされ、通称歌坂といわれる。この坂は近江八幡市浄土寺町に通じ、葬送の道でもあった。
(17)多聞院|中羽田町
天台宗安貴山勝善寺、通称多聞院といい、聖徳太子の創建と伝えられる。本堂の南側には鎌倉時代の立派な宝篋印塔が残されていて、往時の隆盛がうかがわれる。本尊の木造多聞天立像と、洞泉院(廃寺)の旧仏である木造十一面観音菩薩立像はともに平安後期の作である。
(18)観音霊場めぐり|中羽田町
観音霊場は、大正12年(1923年)、勝善寺多聞院の信徒でもあった福井氏が、有志をつのり、西国三十三ヵ所をかたちどった観音石像を多聞院の裏山に安置されたものである。羽田神社の前と、女坂分岐点に「すぐくわんおんみち」と記された道しるべが建っている。
(19)女坂|中羽田町
竜王町林から中羽田町に通ずる安吉山(雪野山)越えの小路である。伝えによると御澤神社の池に住む大蛇(竜)が美女に化け、御澤神社に参詣した小野時兼という人と契りを結んだが、後に時兼に別れを告げ、この坂を越えて平木の澤に帰ったことから「女坂」と称されたといわれる。また、雪野寺(竜王町)が栄えた頃の裏道として往来があり「女坂」と名付けられたともいわれる。
(20)赤穂浪士奥田孫太夫父子の墓|中羽田町
女坂の入口近くの山麓にあり、忠臣蔵で有名な赤穂浪士四十七士のうち、奥田孫太夫とその養子・貞右衛門をまつる。事件より49年後、寛延3年(1750年)に当地に建てられた。建立者は、孫太夫の本家筋にあたる奥田元長・元統兄弟で、現在もその子孫にあたる中羽田町の奥田氏が管理されている。
(21)八幡神社|中羽田町
当神社の社殿は創建(年代不詳、享保19年(1734年)社殿再建)以来雪野山の中腹に鎮座していたが、平成18年3月氏子の総意により同山麓に社殿を新築し遷宮した。
社殿が山の上にあったことから、古い山岳信仰の形態を伝えていると思われる故、社殿跡地に碑を建立し後世に伝える。
(22)八幡社古墳群|中羽田町
八幡神社の参道わきに、山腹から山麓にかけての谷間に分布し、前方後円墳1基を含む総計17基があるとされている。6世紀後半から7世紀前半にかけて造られたものと推定され、山麓の12基が県指定史跡である。
(23)雪野山歴史公園|中羽田町・上羽田町
山麓の古墳群や豊かな自然を活かした広さ2.8haの公園。山頂まで散策道が整備されている。グラウンドゴルフ、キャンプ、バ-ベキュ-など憩いの場所となっている。
(24)雪野山古墳|上羽田町
平成元年(1989年)9月、雪野山の山頂(308.8m)で竪穴式石室が未盗掘の状態で発見された。古墳は3世紀に築造され、滋賀県では最古の前方後円墳である。卑弥呼が中国から贈られたといわれる三角縁神獣鏡をはじめ、218点の出土品は国の重要文化財となっている。
(25)天満宮旧跡|上羽田町平石
氏神天満宮旧跡と記した石碑が建っている。当時の石段が残る参道を登ると本殿跡地がある。明治44年(1911年)9月27日に羽田神社に合祀され、毎年9月4日に近い日曜日には、平石全戸が参加して天神祭が行われている。
(26)平石古墳群|上羽田町平石
平石集落の南端を過ぎた路傍に「史蹟平石古墳群」の石碑があり、その脇に巨石を使った横穴式石室がある。これらの古墳は雪野山の東斜面からすそ部にかけて分布し、62基が残存するといわれている。雪野山系中で最も大きな群集墳である。
(27)後藤氏館跡|中羽田町
戦国時代の近江守護・佐々木六角氏の重臣、後藤但馬守賢豊父子の居館跡である。石垣・土塁・堀の一部が見られ、堅固な構えの中世武家屋敷の面影をとどめている。後藤氏は主君佐々木義弼に殺害され、佐々木六角の家臣らは、これに抗議し離反、世に言う「観音寺騒動」のもととなったといわれている。
(28)光照寺|上羽田町西方
昭和初期に上羽田町平石の雪野山山麓から現在の地に移転された。元は天台宗であったが、浄土真宗本願寺派(西本願寺)に転派した(時期不詳)。過去帳によると宝暦3年(1753年)のものが一番最初の記録である。この時の住職は十三代目となっている。
(29)羽田神社|上羽田町西方
主祭神は、素盞嗚尊と大國主命である。倭姫命が甲可日雲宮より坂田宮に御幸されたときの行宮であると伝える。また、壬申の乱で功績のあった羽田君矢国の故地、羽田荘の総社として住民の尊信を集めてきた。江戸期は蒲生町の一部を含む9ヶ村の氏子が当神社に集まり祭礼を行っていたが、明治維新前後に分離、現在は上羽田町の氏神で、毎年4月に中羽田町との合同例祭が行われている。当神社には鳥居をはじめ仙台藩伊達家の寄進が多い。
(30)徳昌寺|上羽田町北方
多福山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊は木造薬師如来坐像(南北朝期作)。他に木造地蔵菩薩立像(鎌倉末期作)がある。眉山禅師が開基し、中興は雲居国師である。創建の詳細については不明だが、江戸初期には妙心寺派寺院となり、仙台藩主伊達家の菩提寺的存在となっていた。遺跡からは13世紀から16世紀の遺物も発掘されている。深閑とした樹林(市保護樹林)の中にはツクバネガシ林もみられる。
(31)恩林寺跡|上羽田町西方
華岳山の麓にあり、黄檗宗万福寺の末寺で、貞享元年(1684年)に開基された。明治10年(1877年)頃に廃寺となり、現在は西方集落センタ-において、毎月18日に観音講が行われている。かつては蒲生三十三ヵ所の第二十五番目の札所であった。
(32)鹽竈神社|上羽田町南方
鹽竈神社(宮城県塩竃市)は、陸奥国一之宮として、歴代仙台藩主の崇敬を受けてきた。
正保年間(1644年~1648年)、羽田に陣屋が置かれたとき、この地の守り神として勧請されたものと思われる。
その後、安産の神として信仰され、あわせて家内安全と繁栄を祈願し参拝者が訪れる。
(33)円通寺|上羽田町南方
浄土宗のお寺で、本尊の阿弥陀如来座像は鎌倉時代の作である。往古は永久院と称し、東の山裾にあったが、正保3年(1646年)現在地に再興された。第一代根誉善達上人より円通寺と称するようになった。嘉暦2年(1327年)造の宝篋印塔は平成15年(2003年)6月に流墓地に移転された。本堂の欄間、涅槃掛軸は寺宝である。
(34)仙台藩陣屋跡|上羽田町南方
正保年間に近江国内の陸奥仙台藩領を管理するため置かれた陣屋で、明治初年に廃止された。縦 30 間余、横 70 間余の敷地は矢来で囲まれ陣屋のほか兵具蔵・焔硝蔵・囲穀蔵・大庄屋会所・門番宅があった。現在は宅地や田畑になっている。
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