後藤館跡

後藤氏とその居館、後藤館

中世の統治の姿を証す後藤館

中羽田町の東の端、ちょうど上羽田町の西方(にしかた)集落に接するあたりに、大きな土塁で区画された一角があります。ここに室町時代この地に来住し、この付近一帯を治めたとされる後藤氏の居館が置かれていました。
古代から中世の始めにかけて、この地は羽田公矢国一族の勢力圏であったと考えられています。その後、荘園開発(羽田荘)により領地が形成されていき、平安中期以降は皇室領になったとされています。
その後、日本は武家政権に移行していきますが、この地のその頃の統治についてはあまり語られておらず、中世の平田地域の統治を物語るものは、この後藤館跡以外にほとんど見当たりません。
また、後藤氏がここに領地を得た経緯は定かではなく、後藤家の系譜も明らかにされていません。しかしこの壮大な後藤館跡を見る限り、後藤氏がこの地を治めていた事に疑いの余地はなさそうです。



六角家の重臣、後藤賢豊

一方で後藤氏は、近江の守護職を務める六角家の有力な家臣としても活躍しました。
特に後藤賢豊の代には当主の力をしのぐほどの権勢を誇り、一時は当主に代わつて六角家を取り仕切っていたとも言われています。賢豊は、文武の両方に秀でており、六角家臣達からの信望も厚かったとされています。さらに後藤氏には、蒲生氏郷の生家である蒲生家や、北伊勢の千種家との縁組による、有力武家との強い絆がありました。
しかし後に、この実力が災いをもたらします。

観音寺騒動と六角氏式目

六角家重臣とし権勢を誇った後藤賢豊でしたが、永禄六年(一五六三年)10月、当時の当主である六角義治(義弼)に、嫡男(壹岐守)と共に謀殺されてしまいます。これは賢豊の力を恐れるあまり義治がとった暴挙であり、家臣達は揃って反発しました。これは、義治が先代の義賢(承禎)から家督を継いだ4年後の事であり、このとき義治はわずか18才でした。
この事件は観音寺騒動と呼ばれ、これにより六角家は一挙に弱体化しました。そして永禄10年(一五六七年)4月、このような当主の暴走を避けるために六角家の権限を制限する、六角氏式目が制定されました。

家督を継いだ次男、後藤高治

後藤賢豊と嫡男壹岐守の死後、次男高治が後藤家の家督を継ぎ六角氏に仕えます。そして5年後の永禄11年(一五六八年)9月、六角氏は、信長の足利義昭を擁した上洛戦で破れて観音寺城を失い、家臣達は散らばっていきます。
安土桃山時代を迎えると、近江は織田信長に支配されます。この時期、後藤高治は早々と織田信長の軍門に下っていたようです。このため、安土城での相撲大会で相撲奉行に任ぜられるなど信長に重用されました。
しかし、本能寺の変の後の山崎の戦い(天下分け目の天王山の合戦)で高治は、明智光秀に組したため、この地を追われ、平田地域の領地は豊臣秀吉のものになりました。そしてその後この領地は、在京賄料として徳川家康に与えられました。

 

併せて 佐生日吉城近江後藤氏の系譜後藤但馬守いざ登城 をご覧ください。