内容の信憑性を確認中

ここでは従来の通説、および八日市市史(資料Ⅰ 434ページ、近江国守護奉公人連著奉書案-天文19年/1550)での人物の特定に倣って、「高雄」の署名を「後藤高雄」のものとしていますが、「池田高雄」のものである可能性があるため現在調査中です。

調査経過: 2022/12/15
新谷和之氏による「戦国期六角氏の地域支配構造」では、石寺楽市との繋がりが深い「得珍保」には「池田被官人」と同「三郎左衛門与力」がいたとし、この池田氏が「左衛門尉高雄」と同一人物である、という村井祐樹氏の比定を紹介している。さらにこの著書で、金剛輪寺の「下用帳」に六角氏被官として「能登右近大夫」の名がしばしば登場するが、近年の村井祐樹氏の研究により、この人物は、天文九年(1540)以降六角氏の奉書署判者として活動していた、能登忠行であることが明らかになったとしている。さらに、安土城考古博物館発行の「信長のプロフィール」でも「近江国守護奉行人連署奉書案」の署名人を、池田高雄・能登忠行としている。
これらを考え合わせると、署名人「高雄は池田高雄」、「忠行は能登忠行」である可能性が高い。
調査経過:
2022/12/17
その後の、12月16日に入手した「姓氏と家系第21号」所収の「近江後藤氏家系図の仮説的再構築(1)」では、「戦国大名佐々木六角氏の基礎研究研究」から以下の一文を紹介している。以下引用・・・(中略)内政・軍事などあらゆる面で、戦国初頭から六角氏滅亡まで幅広い活動が見られるが、従来後藤氏とされてきた「高雄」は池田氏でる。(「補論」参照)・・・引用終り。
当WEB時事の執筆者としては、この説に納得しつつも、全ての「高雄」が池田氏では無く、「後藤高雄」も実在していたのではないか?という想いを捨てきれない。例えば、蒲生郡志に載せられている「高雄」の花押と連著奉書に署名されている「高雄」の筆跡が明らかに事なる事などから、この2者は別人のように思える。
調査経過: 2022/12/28
八日市市史・資料Ⅰ423ページ所収の「近江守護奉公人連著奉書」に、高雄の署名が見られ、(後藤)と付記されている。日付は大永3年(1523)であり、蒲生郡志に記されている後藤高雄の世代と一致する。またもう一人の署名人「宮木高祐」は、文亀2年(1501)〜大永3年(1523)の文書で名前が確認されてあり、世代的には六角定頼以前の人物である。このことを考え合わせると、「宮木高祐」と名を連ねている「高雄」は「池田高雄」では無く「後藤高雄」であるように思える。