佐生日吉城

佐生城は観音寺城跡から北に延びる尾根の、北東端に位置する佐生山(佐野山)の山頂に築かれています。現地の案内板には、佐生日吉城と書かれています。紹介記事などでも「日吉」の名が入っている事が多く「佐生日吉城」が正式名のようです。

この城の城主は後藤氏であるとされています。そしてこの城は、観音寺城の北方を守るための出城と位置付けられていますが、一部には後藤氏の居城・詰城という紹介も見られます。

この城跡へは、佐生山の西側と東側のどちらからでも入る事ができますが、東に中山道が通っていますので、常識的には城の正面は東側と見るべきでしょう。この東側の登城道へは佐生山裾にあるの墓地の手前から、西側の道へは北向岩屋二十一面観音の駐車場付近から入る事ができます。

郭の南のり面に積まれた長大な石垣

郭の西虎口付近(写真 上)・東虎口手前(写真 下)

佐生日吉城の縄張図


縄張図出典:近江の山城ベスト50を歩く

郭のようす

この城を一口で言い表すと、「三角形の郭を石垣で固めた単郭の城」であると言えます。郭の形が三角なのは、この場所から三方向に尾根が延びているからです。そしてこの三角形のそれぞれの頂点に虎口が設けられています。
それぞれの虎口には石垣が積まれており、西虎口側の石垣の角の部分は4メートルの高さがあります。一方、東虎口にも石垣が積まれていますが背が低く、視線を遮るほどの高さは無いのでスカスカに見えます。この付近には石が散乱しており、崩落などにより原型を留めてていないようにも見えます。なんとなくここに立派な門が建っていたのではないかと想像したくなるような空間です。さらに北側の頂点にも小さな石垣と虎口が見られます。
圧巻なのは、郭の南のり面に積まれた石垣です。西虎口から東虎口までつながっており、全長30m以上あります。また石垣は横矢が効くように内側に湾曲した形に積まれています。
郭の内部は広々としていますが周囲に土塁が設けられており、真っ平ではありません。そしてこの郭には「後藤但馬守城址」と刻まれた石碑が建てっれています。

佐生城は何のための城?

城は敵と戦うための施設であり、敵が攻め込んで来るであろう方向を「城の正面」とし、高い石垣や強固な虎口を設けて侵入を阻みます。なので逆に、石垣などの配置から城の正面がどちらなのかを知れば、どの方向から来る敵と戦おうとしているのかが分かります。
そこでこの佐生城を見てみると、郭の南側には守りの固さを敵に見せ付けるかのように、立派な石垣が積まれています。この南面を正面と見なしてその前方を見ると、4kmほど先に観音寺城があります。一般論としてこの事実は、「佐生城は観音寺城の出城では無く観音寺城と戦うため城」であるということを物語っています。しかしこれは有り得る話ではありません。

佐生城の歴史

日本家系図学会の姓氏と家系第に収められている「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では佐生城の歴史について記されており、以下にその要点を紹介します。

かつて佐生地域には、葛岡氏が地頭として在住しており、古くはこの葛岡氏が佐生城の城主であった。しかし少なくとも天文6年の時点では、地頭ではあっても佐生城主では無く、おそらく永正期に後藤氏の居城に改替したとみられる。この城跡遺構は、「古城址」と「後藤氏下屋敷」とに分かれていた。(出自追記:能登川の歴史第二巻/淡海温故録)
後藤家は一時、本家と分家に分かれて活動していた時期があり、それぞれが個別に居城を構えていた。この佐生城は本家の居城であり、分家の居城は津川城(後藤館)であったと考えられる。
後藤賢豊は分家の当主であったが、但馬守から本家の名跡を相続して本家の当主になった。

以上は、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」からの引用です。内容はあくまで仮説とされています。
またこれには、後藤賢豊が本家を継いでからの佐生城の情報はありません。浅井勢に対する劣勢の中、その侵攻に備えて後藤氏の居城から観音寺城の出城に改替されたのかも知れません。

撮影:2020年3月25日

撮影:2023年3月1日

 

併せて 登城記(YAMAP)、近江後藤氏の系譜後藤館跡後藤但馬守いざ登城 をご覧ください。