戦国近江に名を残した後藤氏。今に残る幾つもの遺構が往時の偉業を伝えてています。しかしその一方、後藤氏の足跡が語られる事は殆ど無く、実像は闇の中に置き去りにされているかるようにも見えます。そこでいろいろ調べてみところ、幾つかの歴史書で近江後藤氏が取り上げられている事がわかりました。
近江蒲生郡志が語る近江後藤氏の足跡
東近江市中羽田町に居館跡を残す近江後藤氏は、佐々木六角家の重臣として代々要職を務めました。しかし永禄6年(1563)、家老職にあった後藤賢豊は、主君の義治に謀殺され、観音寺騒動 の発端となりました。
当時、後藤氏が本拠としていたこの地域(現在の中羽田町)は蒲生郡に属していました。そこでその地域史誌である蒲生郡志を紐解いてみたところ、巻二の第四編 「佐々木氏人志」に、近江後藤氏の足取りが紹介されていました。
その内容は東寺百合文書、朽木家古文書、宗長手記、蒲生郡志の荘園志および軍事志などから、後藤家の人物の足跡を時系列に追っています。付記された出自を参照すれば、より詳細な情報を得る事ができます。
以下はその、「佐々木氏 人志第十四章、後藤氏」の要約です。
後藤左衛門入道覚曇
永德元年12月 (1381)の東寺文書 に、山内代として、速水庄壇供米についての質問状が残っている。このころ山内氏は、速水庄に所領を有しており、庄内にある宝荘厳院領の代官交迭を望んでいたと記されている。差出人名は沙弥定誉となっている。
後藤正賢・後藤三郎左衛門高恒・後藤大和守高忠
長禄4年(1460)の東寺文書に後藤正賢ありと記されている。続いて、佐々木高頼の時、後藤三郎左衛門高恒あり但馬守に任ず。その子大和守高忠が高頼・定頼に仕えるとある。そしてこの2人についての記録が 朽木家古文書 に十余通残されていると書かれている。そこで 朽木データベース1 と 朽木データベース2 にアクセスして “後藤” でページ内を検索すると、高恒と高忠の名が記された文書が多数見つかる。(併せて [資料] 朽木文書の研究(一) バックアップ を参照)
そしてこの中の、大永2年6月28日(1522)に出された朽木稙廣書状(朽文449)には後藤但馬守高恒の名が見られ、少なくともこの時期に、高恒が存命であった事がわかる。(要再確認)
なお、レファレンス共同データベース 滋賀県立図書館 (2110049) によると中羽田町に残る後藤館は、この後藤但馬守高恒による創建と推定されている。また八日市市史・資料Ⅰ471ぺジには「後藤高恒書状案」が活字化され載せられている。
朽木家古文書に残る、後藤高恒と高忠の発給書状。画像はクリック・ダブルクリックで拡大
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朽木家古文書・上(国立公文書館内閣文庫)第二十二軸には、後藤高恒と後藤高忠が発給した書状が23通載せられている。高恒と高忠が名を連ねている書状もあり、両人が同世代又は近い世代の人物である事が分かる。発給日は記されていいないが、高頼・定頼の奉公人として出されている事から、高頼・定頼と同時期に活動していた人物であることがわかる。
後藤高雄・後藤高佑
永正13年(1516)8月、伊庭の乱の時、佐々木氏の家宰として活動。
また巻九(軍事志)には、「後藤高雄 杉山藤三郎の戦功を賞す」というタイトルで、定頼の将、後藤高雄は被官の杉山藤三郎と共に戦に参加して敵首を打ち取り、定頼をからその戦功を嘉賞されたと記されている。
さらに朽木家古文書には、高雄が発給した文書も見られ、前述の高恒・高忠とほぼ同時期のものと推定される。他に高祐による発給書状も見られ、後藤氏の書状の発給は定頼の時期に集中している。
後藤豊前守高俊・後藤但馬守
永正16年(1519)4月、後藤豊前守高俊ありと記されている。続いて但馬守について、大永2年(1522)連歌師宗長が伊勢より来訪の際、定頼は但馬守を興夫として奉い出て迎えたとある。宗長手記二十七の條に、後藤但馬守(佐々木六角瓜牙の臣)による観音寺からの迎えの際には腰かき人夫が居た事など、道中の様子についても記されている。(八日市市史・資料Ⅰ298ページ、宗長日記を併せて参照)
後藤但馬守賢豊
佐々木義賢の時、但馬守賢豊が老臣として権勢をふるう。しかし、永禄6年(1563)但馬守賢豊は嫡男と共に、義賢の子、義弼に謀殺される。
後藤高治
家督を継いだ高治は、永禄11年(1568)観音寺城落城のあと蒲生氏に仕え、伊勢松坂からの会津縛封の戦に従軍。
後藤氏要人の花押:蒲生郡志より転載
後藤三郎左衛門高恒・後藤高雄・後藤大和守高忠・後藤三郎左衛門尉氏豊・後藤但馬守賢豊恒・後藤高治
後藤三郎左衛門高恒
後藤大和守高忠
後藤但馬守賢豊
後藤高雄・右は後藤三郎左衛門尉氏豊
後藤高治
朽木家古文書に、天文12年(1543)10月16日に後藤高雄が、野寺忠行との連名で差し出したとされる「近江守護(六角定頼)家年寄連署奉書案」が残っています。これは、朽木氏からの訴えを認めた六角氏側からの謝罪文のようです。その内容が「解室町・戦国時代の歴史・古文書講座」や「歴史と物語」で分りやすく解説されています。
さらに、「今堀日吉神社文書」に残る、天文18年(1549)年2月21日付けの「近江国守護奉行人連署奉書案」でも後藤高雄が野寺忠行と共に、差出人として名を連ねています。以下その文面からの引用・・・
「紙商買事、石寺新市儀者、為楽市条、不可及是非、濃州並当国中儀、座人外於令商買者、見相仁荷物押置、可致注進、一段可被仰付候由也。仍執達如件。天文十八年十二月十一日 忠行 [在判] 高雄[在判 ]枝村惣中」
この書状では、「枝村惣中」に対して、観音寺城下の石寺楽市楽座で、美濃紙の販売を特別に許可するという意向を伝えています。(参考:リアル!戦国時代 vol.39)
後藤高雄は奉書を、野寺(能寺)忠行との連名で差し出す例が多く、他の後藤家の人物と異なった動きをしているように見えます。また奉書等の文書では、少なくとも34年間にわたり高雄の名が確認でき、活動期間が他の後藤家人物とオーバラップしています。さらに官位名、親や子の名も伝わっておらず、後藤氏系図への反映には更なる調査が必要です。
また、早稲田大学図書館、古典総合データベース には、永正16年4月19日(1519)に後藤豊前守高俊が、種村中務丞貞和との連名で 杉山三郎兵衛 に宛てた、室町幕府連署奉書の写し が載せられています。これにより、高俊が六角政権内だけでなく室町幕府においても何らかの要職に就いていた事がわかります。朽木家古文書には他にも、後藤氏が差出人として名を連ねた奉書が残っています*?。
近江守護(六角定頼)家年寄連署奉書案
差出人:後藤高雄*?と野寺忠行*?との連名。出典:歴史と物語
近江国守護奉行人連署奉書案
差出人:後藤高雄*?と野寺(能寺)忠行*?との連名。画像出典:安土城考古博物館
連著奉書は複数の奉公人が連名で差し出す書状ですが、これに名を連ねた人物に言及される事はあまり無く、ついつい差出人の名を見落しがちまいます。「近江守護(六角定頼)家年寄連署奉書案」は「安土城よりも前に、観音寺城下で楽市楽座が開かれた」という事実を裏付ける資料として何度か目にしていましたが、その差出人が後藤高雄(野寺忠行との連名)であること、今まで気付きませんでした。
こうして書状を見てみると、後藤氏が歴史上的に重要な局面で奉書を差し出している事がわかります。
* 重要: ここでは従来の通説、および八日市市史(資料Ⅰ 434ページ、近江国守護奉公人連著奉書案-天文19年/1550)での添え書きに倣って、「高雄」の署名を「後藤高雄」のものとしていますが、「池田高雄」のものである可能性が生じため現在調査中です。
調査経過: 2022/12/15
新谷和之氏による「戦国期六角氏の地域支配構造」では、石寺新市との繋がりが深い「得珍保」には「池田被官人」と同「三郎左衛門与力」がいたとし、この池田氏が「左衛門尉高雄」と同一人物である、という村井祐樹氏の比定を紹介している。さらにこの著書で、金剛輪寺の「下用帳」に六角氏被官として「能登右近大夫」の名がしばしば登場するが、近年の村井祐樹氏の研究により、この人物は、天文九年(1540)以降六角氏の奉書署判者として活動していた、能登忠行であることが明らかになったとしている。さらに、安土城考古博物館発行の「信長のプロフィール」でも「近江国守護奉行人連署奉書案」の署名人を、池田高雄・能登忠行としている。
これらを考え合わせると、署名人「高雄は池田高雄」、「忠行は能登忠行」である可能性が高い。
調査経過: 2022/12/17
その後の12月16日に入手した、「姓氏と家系第21号」所収の「近江後藤氏家系図の仮説的再構築(1)」では、「戦国大名佐々木六角氏の基礎研究研究」から以下の一文を紹介している。
以下引用・・・(中略)内政・軍事などあらゆる面で、戦国初頭から六角氏滅亡まで幅広い活動が見られるが、従来後藤氏とされてきた「高雄」は池田氏でる。(「補論」参照)・・・引用終り。
当WEB記事の執筆者としては、この説に納得しつつも、全ての「高雄」が池田氏では無く、「後藤高雄」も実在していたのではないか?という想いを捨てきれない。例えば、蒲生郡志に載せられている「高雄」の花押と連著奉書に署名されている「高雄」の筆跡が明らかに事なる事などから、後藤高雄は別人として存在していたように思える。
調査経過: 2022/12/28
八日市市史・資料Ⅰ423ページ所収の「近江守護奉公人連著奉書」に、高雄の署名が見られ、(後藤)と付記されている。日付は大永3年(1523)であり、蒲生郡志に記されている後藤高雄の世代と一致する。
またもう一人の署名人「宮木高祐」は、文亀2年(1501)〜大永3年(1523)の文書で名前が確認されており、世代的には六角定頼以前の人物である。このことを考え合わせると、「宮木高祐」と名を連ねている「高雄」は「池田高雄」では無く「後藤高雄」であるように思える。
その他の情報源:2023/11/29
今堀日吉神社文書に見る六角氏『楽市』と紙商売についての考察
近江後藤氏は播磨後藤氏の支流か?
蒲生郡志に後藤氏の名が出始めるのは室町時代の始め頃です。また、地名にも後藤の名は残っていない事などから、後藤氏は古くからの在地土豪では無いように思えます。では、後藤氏はどこから来たのでしょうか?
そこで情報を検索してみたところ、後藤基清の子孫 二人の【もとあき】というページに辿り付きました。この記事では、日本家系図学会発行の「姓氏と家系第24号」と勢州軍記の記事を引用し、播磨の後藤基明が近江後藤氏の祖であるとしています。以下にその記事の一部を引用・要約して紹介します。
|基清→基綱→基隆→基秀→基明、(播磨)
|そして、基明→覚曇→但馬前司→因幡守→…(近江)と続く
「勢州軍記」によると、近江後藤氏の祖は播磨国の住人「後藤三郎左門尉基明」とされる。
覚曇は「後藤左衛門入道覚曇」。永徳元年(1381年)東寺百合文書に山内代として「沙弥○○」とあり、端裏書に「後藤さ衛門入道覚曇」とある。但馬前司は「後藤但馬前司」永田左衛門四郎政国の娘がこの人物に嫁いでいる。[引用おわり]
※ 播磨後藤氏の祖とされる後藤基清は、佐藤仲清の子として生まれ、後藤実基の養子になって後藤家を継いだと伝えられています。参考: 藤原北家、利仁流系図。藤原北家、房前流 佐藤氏系図
確かに、出典元の勢州軍記には次のように、近江後藤氏の祖は播磨の後藤三郎左衛門尉基明であると記されています。『・・・・・彼後藤但馬守者後藤兵衛実基之後胤。播磨国住人後. 藤三郎左衛門尉基明之嫡孫。其頃於六角家第一之臣下也』。
もしこれが誤りでなければ、近江後藤氏は播磨後藤氏の傍流(支流)という事になります。近江後藤氏の歴代の当主は,、後藤基明から受け継ぐかように「三郎左衛門」の名を名乗っており、播磨後藤氏の傍流であるという説と妙に符合します。
しかし基明は春日山城の初代城主であり、近江に来住した事をうかがわせる記録は見あたりません。よって、近江後藤氏の祖はその次の代の後藤左衛門入道覚曇とするのが妥当なところなのかも知れません。
近江後藤氏系図の仮説的再構築
日本家系図学会発行の「姓氏と家系第24号」所収の「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では数々の原資料を基に後藤家歴代の人物の足取りが追跡されています。
そしてそれに推察を加え「近江後藤氏の系図」が作成さています。各人物の生没年が殆ど不明である事などサックリとしたものですが、室町の前期から末期にかけての流れが、途切れる事なく導き出されています。
また、ある時期に同一世代と考えられる人の名が複数重複して見られる事から、後藤家が本家と分家に分かれた時期があったと推定しています。
本流(本家筋)系図 (系図レイアウトの再現には MS 明朝が必須)
この系図では、現在の能登川町佐生地区を本拠とし、佐生城の城主であった高種(流)を本家筋とし、津川城の城主であった高忠(流)が分家筋に位置づけられている。ちなみに高忠は高種の弟であるとされている。本家筋は代々、三郎左衛門・但馬守を名乗る傾向がみられる。そして正賢の子の代で分れた高忠(流)分家は、賢豊の代で本家に合流したとされている。
基明
|後藤三郎左衛門尉
|播磨春日山城城主
|大和3(1354)討死
覚曇
|左衛門入道
|永德元年12月(1381)の記録に見ゆ
但馬前司
|(*追)神宮文書所所蔵の永田氏に伝わる系図に、
|永田左衛門四郎政国の子が但馬前司に嫁したとある
因幡守
|(*追)実名は不明。建内記を拠に推定
将監
|初め因幡左衛門尉
|嘉吉3(1443)から文安4(1447)にかけて記録に見ゆ
正賢
|寛正元(1460)の記録に見ゆ
|
+――→[本流から傍流へ]――→
|
高種
|三郎左衛門尉
|佐生城主
|文明7(1475)より同19(1487)にかけて記録に見ゆ
+―――+―――+
| | 高俊
| 高成 |豊前守・永正16(1519)の記録に見ゆ
高恒 |永正5(1508)より同13(1516)にかけて記録に見ゆ
|三郎左衛門尉・但馬守
|佐生城主
|明応5(1496)より大永6(1526)にかけて記録に見ゆ
但馬
|初め三郎左衛門尉
|大永5(1556)の記録に見ゆ
|
+←――[傍流から本流に]←―――
|
賢豊
|重左衛門尉・但馬守
|初め方政・或いは頼秀・綱宜・秀勝
|永禄2(1559)から永禄5(1562)にかけて記録に見ゆ
|永禄6(1563)卒
+――+―――次郎左衛門
| | |『氏郷記』に見ゆ
| 氏豊 | 永禄6(1563)卒
| |又三郎・三郎左衛門・対馬守
| |天文21(1552)から永禄6(1563)にかけて記録に見ゆ
高治 |永禄6(1563)卒
|喜三郎、のち戸賀十兵衛尉と改名。或いは定豊・綱明
|天生17(1580)卒
※ 付記 "(*追)" は当サイト管理人による補足
傍流(分家筋)系図 (系図レイアウトの再現には MS 明朝が必須)
蒲生の津川城を拠点とする高忠(流)傍系の流れ。津川城は中羽田の後藤館の事であると思われるが特定できる根拠が見当たらない。賢豊の代には本家筋に合流し、本家の名跡を継いだとされている。
+←――[本流から傍流に]←―――
|
高忠
|大和守
|蒲生津川(河)城主(後藤館カ)
|明応5(1496)から永正3(1506)にかけて記録にみゆ
実方
|播磨守
|津川城主
+―――+――+――+――+―-+―女子
| | | | | 女子 |三雲左衛門成持の妻
| | | | 女子 |小倉左近大輔実資の妻
| | | | |蒲生左衛門太夫賢秀の妻・氏郷母
| | | 松禅院
| | 有茲 |比叡山法師
| | |三郎左衛門
| 兵庫助 |伊勢国千草氏の養子
賢豊 |上坂治部少輔の養子
|重左衛門尉・但馬守
|佐生城主後藤但馬守の名跡を相続
|
+―――→[傍流から本流へ]―――→
この系図は、「姓氏と家系第24号」に収められている「近江後藤氏系図の仮説的再構築」から引用させていただいたものです。この精良な記事の著者、岩城大介氏の多大なるご努力に敬意と謝意を表します。
今回は、蒲生郡志と姓氏と家系第24号から、インターネット上の記事からは得られない多くの貴重な情報を入手できました。尤もそれらの中には仮説の域に留まっているものも含まれていますが、それはそれで議論を活性化させる上で貴重なものであると言えます。
今では、インターネット経由で誰もが簡単に有用な情報を見つけ出す事ができます。そこで、ネット上の情報と今回得られた新情報とを突き合わせてみみました。すると半ば定説化しているものの中にも、真偽を見直さざるを得ないほどの乖離がいくつも見つかりました。特に次の5つの中には定説というよりもむしろ、単なる俗説としか思えないものの見られます。
後藤賢豊の父は但馬守?
Wikipediaなど、後藤賢豊を紹介する多くのサイトでは、後藤賢豊の父の名を「但馬守」としています。しかし、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では両者の活動時期がほぼじである事などから、但馬守は賢豊の父では無く「はとこ」(祖祖父が同じ)に位置付けています。正賢の次の代で本家と分家に分かれたという事を前提とするならば、この説は世代的にも符合します。また氏郷記では播磨守の嫡男を但馬守、そしてその妹(おきり-出自不明)を蒲生氏郷の母としており、これが正しければ賢豊の父は「但馬守」では無く「播磨守」であるという事になります。(八日市市史・資料Ⅰ308ページ、氏郷記-後藤兵乱之事を併せて参照)
義治に謀殺されたのは、賢豊と壱岐守の2人?
Wikipediaの後藤賢豊や観音寺騒動のページには、観音寺騒動で後藤賢豊とその子の壱岐守が殺害されたとあります。他の記事でも同様に紹介されており、殺害されたのは父子2人であると受け取れます。
しかしこの「近江後藤氏系図の仮説的再構築」には賢豊の子として「次郎左衛門」の名が示されており、その没年が賢豊と同じ永禄6(1563)になっています(出典:氏郷記 *討死とされている)。
また「長享年後畿内兵乱記」には、父子3人が殺害されたとあり、観音寺騒動で殺害されたのは2人ではなく3人であるというのが真実かも知れません。* 以下出自-「長享年後畿内兵乱記」、引用「六角氏式目制定の目的と背景」: 十月一日、為佐々木四郎殿後藤父子三人生害、然者永田刑部少輔三上池田進藤平井其外後藤家来衆自焼、面々館江取退、干時観音寺騒動・・・(八日市市史・資料Ⅰ295ページ、長享年後畿内兵乱記を併せて参照)
賢豊の嫡男の名は壱岐守?
Wikipediaや、故田中政三氏の著書をはじめ、多くの記事では賢豊の嫡男の名が「壱岐守」という官位名で紹介されています。しかし今回調査した資料からは「壱岐守」の名を見付ける事ができませんでした。
そこで「近江後藤氏系図の仮説的再構築」を見ると、賢豊の嫡男の名として、氏豊(又三郎・三郎左衛門・対馬守)の名が示されており、天文21(1552)から永禄6(1563)にかけて記録に見ゆと付記されています。蒲生郡志でも氏豊の花押が紹介されており,、天文21年8月20日(1552)の六角氏奉公人連著奉書にも能登忠行と共に署名しており、後藤氏豊が実在したことに誤りは無さそうです。
このようなことから、賢豊の嫡男の名は「壱岐守」では無く「氏豊」(後藤対馬守氏豊)と考えるのが妥当なのではないでしょうか?
後藤氏豊と能登忠行との連による六角氏奉公人連著奉書:天文21年8月20日(1552)発給。長命寺蔵。新谷和之著、図説 六角氏と観音寺城より。
観音寺騒動、捨てきれない3月勃発説
Web上では後藤賢豊が謀殺された観音寺騒動の勃発は、永禄6年(1563)10月1日が通説として定着していますが、「10月ではなく3月」説も根強く残っています。複数の古文書に3月勃発の記載があり、賢豊の本拠地である中羽田町に3月勃発説を裏付けるかのような風習が、最近まで残っていたようです。それは、賢豊の死を悼み「3月節句の行事は一切行わない」というものです。
これについては、冊子「八日市市の昔ばなし-孫にきかせる」で紹介されています。もしこの風習が古くから受け継がれてきたものであったとすると、3月勃発説の信憑性を裏付ける、根拠の一つになるのではないでしょうか?
中羽田町に残る風習
冊子「八日市市の昔ばなし-孫にきかせる」より
以下、古文書に記された観音寺騒動勃発時期の一覧を、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」から引用させていただきました。
文書の成立 |
文書の名前 |
騒動の勃発 |
永禄6年(1563) |
厳助往年記 |
永禄6年10月 |
元亀 3年(1572)頃 |
兼右卿記 |
永禄6年10月1日 |
天正末期(1590-1592) |
足利李世記 |
永禄6年 |
寛永10年(1633)頃 |
氏郷記 |
永禄6年3月15日 |
寛永15年(1638)以前 |
勢州軍記 |
永禄6年3月 |
明暦2年(1656) |
江源武艦 |
永禄6年3月23日 |
延宝6年(1678)以前 |
長享年後畿内兵乱記 |
永禄6年10月1日 |
元禄3年(1690)以前 |
永禄以来年代記(年代記抄節と同じ) |
永禄6年10月1日 |
元禄8年(1695) |
蒲生軍記 |
永禄6年3月15日 |
元禄年間(1688-1701) |
浅井三代記 |
永禄7年3月23日 |
宝永年間(1703-1711) |
続応仁後記 |
永禄6年春 |
享保19(1734) |
近江輿地史略 |
永禄6年3月23日 |
安永年間(1772-1781) |
端石年代雑記 |
永禄6年10月11日 |
明治35年(1902) |
氏郷記(再校) |
永禄6年3月15日 |
この一覧を見る限り、勃発した年に近い文書では、通説通り10月とするものが多いようです。しかし、「氏郷記」をはじめ、3月とする文書も多く、安易に3月説を捨て去ることはできません。
また、初出の「厳助往年記」は作者である厳助が自らの日記をもとに、賢豊が殺されたとされる永禄6年に文書化したものであり、一次情報に極めて近いものとして評価できます。この文書の写本が国立公文書館デジタルアーカイブ に載せられています。
賢豊が殺されたとされる永禄6年の出来事は、この閲覧データ末尾の 117-120ページに収められています。観音寺騒動については、7月18日の日付の欄(119ページ後半)に「江州観音寺城滅却及乱事」という記載が見られます。尤もこれは、観音寺騒動が起こった日というよりはむしろ、伝え聞いた一連の騒動を記した日と捉えた方がよさそうです。もしもしこれが、7月末の出来事またはそれを記した日であるとすると、10月の2カ月以上も前に騒動が起こっていた事になり、10月説とは符合しません。騒動勃発の時期については、未だに情報が錯綜しており、コンセンサス形成までの道のりは長そうです。
佐生城は、観音寺城防衛の為の単なる軍事拠点?
能登川町の佐生地区には、後藤氏の築城とされる佐生城跡があり、後藤但馬守の名が刻まれた石標が建てられています。ホームページで見かける解説の多くはこの佐生城を、観音寺城の支城と位置付けてています。
しかし、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では、この城は後藤氏の居城であり、中羽田の後藤館に拠点を移すまでは、ここが本拠であった可能性を指摘しています。また佐生城の元々の城主は葛岡氏であり、永正期(1504-1521)に後藤氏に改替えされたと推定しています。さらに、蒲生郡志巻二 526ページでは、近江輿地誌略 を引用し佐生地区も後藤氏の住地であったとしています。また史誌「能登川の歴史」でも、下屋敷の存在も含め、佐生城が後藤氏の居城であったと推定しています。
そして、六角研究者である佐々木哲氏のブログでは城郭研究者である長谷川博美氏の「例えば後藤氏の佐生城などは、本城である観音寺城に楯突く様に、石垣が普請されています」との見解が披露されています。
戦国期には観音寺城の支城として、軍事的に重要な拠点であった事に疑いの余地はありませんが、元々は後藤氏が観音寺城を守る為に築いた城では無かったようです。
後藤館の実名は津川城?
後藤氏の居館が中羽田町に残っており県の史跡にも指定されています。しかし「近江後藤氏系図の仮説的再構築」によると後藤館という名は、大正11年(1922)に発刊された蒲生郡志が初見であり、その出自も示されていないとの事です。しかしその一方、「蒲生氏系譜伝」及び「蒲生氏郷考」所収の系図には「津川城主」、そして「佐々木南北諸士帳」宝暦3年(1753)の筆写には「津河城」の記載があるとされています。
この事から「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では、江戸期に「津川(河)城」の伝承が途絶えた後、明治期になって「後藤館」の名が新に使われ始めたのでなないか?と推定しています。また、滋賀県立図書館調査協力課の見解は、「後藤館は「津川(河)城」と比定され得る位置にある」との事です。
現役の頃に使われていたであろう「津川城」の名が葬りされててしまうのは口惜しい限りです。なんとか真相を究明して、「津川城」の名を後藤館の名前の脇にでも付記したいものです。
しかし中羽田と蒲生一帯には「津川」の地名は残っていません。そこで「津川」の「津」の字について調べてみたところ、「河口・泉など、水の湧き出る場所」を意味するようです。
後藤館の一角には、昭和の中期あたりまで池があり清水が湧き出ていました。そしてその水は後藤館の土塁の前に掘られた堀を満たし、さらに小川を通じて下流に流れ、私が住む下羽田の農業用水としても使われていました。この付近には白鳥川や布引川が流れていますが、この地に源泉(津)持つ川は他に無いので、これを「津川」と呼んで区別していたのではないでしょうか?
以上、この地に水源を持つ「津川」という川があり、その源流付近に建つ城なので「津川城」と呼んだというのが、私の安直な仮説です。
関連情報-後藤堀の清水:
板谷宇一家文書として残る「下羽田村願書案」(水利相論に関わる文書)で「後藤掘清水」について言及されている。この文書は慶安3年(1650)に作成されたものであり、江戸の初期には後藤館の周囲に掘られた「堀」の名が(小字名)後藤掘として定着し、そこに湧く「後藤掘清水」が農業用水として利用されていたことが分かる。(八日市市史第六巻・資料Ⅱ 271ページ参照)。また板谷宇一家文書「後藤掘出入りにつき下羽田村覚書」でも同様の史実が記されている。八日市市史第六巻・資料Ⅱ 277ページ参照)
近江後藤氏の人名一覧
近江後藤氏の祖?:後藤三郎左衛門尉基明。
近江で初見の後藤氏人物:後藤左衛門入道覚曇(後藤□□(定誉ヵ)書状)
本流?近江後藤氏:
後藤但馬前司・後藤因幡守・後藤将監(初め因幡左衛門尉)・後藤正賢・後藤三郎左衛門尉高種・後藤三郎左衛門尉高恒・後藤高成・後藤豊前守高俊・後藤三郎左衛門尉高雄(左衛門尉・伊予守)・後藤但馬守賢豊(重左衛門尉。初め方政・頼秀・綱宜・秀勝;後藤秀勝)・後藤喜三郎高治(のち戸賀十兵衛尉と改名。あるいは定豊・綱明)・後藤対馬守氏豊(初め又三郎・三郎左衛門)・後藤次郎左衛門。
傍流?近江後藤氏:
後藤大和守高忠・後藤播磨守実方・後藤兵庫助・後藤三郎左衛門有茲・松禅院。
先達の方々の多大な努力に敬意と感謝を表しつつ、ここでひとまず締めくくりとします。
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併せて 佐生日吉城、後藤館跡、後藤但馬守いざ登城 をご覧ください。