山歩きには絶好の季節になりました。 雪野山にお越の際には少し足を延ばして、北西部に連なる安妃山(安吉山)にお立ち寄り下さい。

東近江市の赤色立体図

東近江市で赤色立体図が公開されている事を知り、さっそく試してみました。

東近江市の航空写真閲覧サイト

全域

平田地区

雪野山の浄土寺側にある2つの天神社と参道|https://yamap.com/activities/16768041
参道の両脇が連続した削平地で埋め尽くされているのがわかります。

以下は八幡神社・八幡社古墳群周辺の様子。
こちらも旧参道の両脇が連続した削平地で埋め尽くされている。

以下は観音寺城跡の観音正寺周辺。本丸、伝後藤邸、進藤邸の郭と道筋、石垣が確認できる。

 

東近江市全域がカバーされているので、瓶割山城・雪野山城・布施山城・大森城・佐生城など、市内の全ての山城の地形が見られます。

観音寺城跡の一部もカバーされれいたので、さっそく使わせてもらいました。

観音寺城の赤色立体図  ・観音正寺参道から伝後藤邸への直行ルート

これは、山城の縄張調査隊にとって革命的な進化です。

 

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8月 21, 2024

観音寺城|本谷プロジェクト

観音寺城|本谷プロジェクト」が始動しました。

当方では城跡整備や情報発信など、観音寺城跡に関する活動を多角的に行ってきましたが、このたび跡整備を行う有志の会として「観音寺城|本谷プロジェクト」を発足させ、この新なスキームで活動を開始しました。
この「観音寺城|本谷プロジェクト」では後藤・進藤邸が残る、本谷周辺の環境維持を目的として活動します。もしこの活動に興味をお持ちの方がおられましたら、yukio@jono.jp までご連絡ください。

観音寺城の本谷とその周辺の道筋

伝的場から伝後藤邸下段の石垣を望む:2023/1/1 撮影

伝後藤邸中央通の入口付近から前方を望む:2023/1/1 撮影
画像 PDF ダウンロード

伝後藤邸の石垣:2023/12/25撮影

観音寺城|本谷プロジェクト

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9月 7, 2023

ちょっといいかも♡下羽田の里山

みなさんこんにちは!

私が暮らす下羽田町では、ボランティアグループだけでなく町をあげて里山環境の維持管理に取り組んできました。この活動の成果により尾根筋の展望が開け、” ごそわら ” 化していた山裾もずいぶん小綺麗になりました。また散策道や案内板も整備され、一時途絶えかけていた里山環境の利用も少しづつ広がってきました。

私たちはこの山が大好きです。そして「自分の好きなものは、きっと他の人も好きなはず!」という想いからこの下羽田の里山環境をご紹介する事にしました。

里山と整備された散策道

出典:この図は Google 社提供の地図上に独自情報を書き加えたものです。

昭和24年に撮影された空中写真

この空中写真は、国土地理院長の承認を得て、米軍撮影の空中写真を複製したものです。 (承認番号 平29情複、 第28号)

明治24年所定の地図

この地図は、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1 正式図を複製したものです。 (承認番号 平29情複、 第28号)

注:  この空中写真と2万分1 正式図を複製する場合には、国土地理院の長の承認が必要です。

またよろしければ、里山整備の記録写真も併せてご覧ください。

この山は低山ながら 道筋の風景は変化に富み展望は良好 です。家族連れでも無理なくお楽しみいただけると思いますので、ぜひ一度足をお運びください。

雪野山♡しもはねだ里山天国について

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3月 26, 2016

もう一つの雪野山、安妃山の魅力

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3月 25, 2016

ちょっと足を延ばしてみませんか?

雪野山をまるごと楽しむ
agiyukimap
有名な雪野山古墳の周辺だけでなく、展望が良く歩きやすい、下羽田の里山 “安妃山” をお楽しみ下さい。

瓶割山まで足を延ばそう!
瓶割山(長光寺山)ルートマップ

瓶割山城の城跡がある瓶割山(長光寺山)まで足を延ばしてみてはいかがでしょうか?

歴史の町、ひらたを歩こう!

hiratamapfull下羽田の里山は蒲生野の一角にあり、その東側に位置する平田地区には歴史ロマン溢れる見所が数多くあります。

雪野山北西部周辺の遺構

agiikou調べてみると、雪野山北西部”安妃山”周辺には意外に多くの遺構があります。

峠を越えて山向こうを訪れる

DSC_8631下羽田の里山 “安妃山” には、山向こうに抜ける峠越えの道があり、近江八幡・竜王側を併せて散策する際に便利です。

下羽田の年中行事


下羽田町の年中行事の記録写真。毎年4月に行われる劔神社大祭など、準備作業や開催日の様子が撮影されています。

水の確保と水利をめぐる争い

江戸期に起こった水争いに関する資料が 滋賀大学経済学部に保管 されているとの事ですが、見つける事ができませんでした。

 

雪野山♡しもはねだ里山天国について

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3月 25, 2016

尾根筋から見える戦国時代の城山…など

下羽田の里山からは戦国時代に城郭が置かれていた多くの山々を望む事ができます。

この付近で最も標高が高く展望が良い大岩山頂

大岩展望台からは正面あたりに観音寺城があった観音寺山が見え、その左手後方には安土城があった安土山があります。他にも山城があった瓶割山、箕作山、小脇山、布施山、八幡山、岡山(水茎岡山城)伊吹山などを一望する事ができます。

お城好きの方はこの大岩あたりで一休みして、城山を眺めながら城跡巡りの構想をめぐらせてみてはいかがでしょうか?

安土城|大手道筋の案内板
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安土城跡の大手道筋に設置されている案内板の紹介です。写真だけでなく、案内板の紹介文もほぼ全文を転載しています。安土城跡巡りに出かける前の予習にお役立てください。

安土城|もう一つの登城道・東門道

安土城跡には観光コ-スの外にも、八角平、薬師平、馬場平、神様平、御茶屋平、椿平、七兵衛平、九品寺平などの興味深い場所がいくつもあり、東門道沿いの馬場平には目賀田城の遺構とと見られる郭の跡が残っています。

観音寺城|追手道を行こう!
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観音寺城は石垣が多用された日本最大級の山城です。幹線路である伝追手道が整備され、御屋形跡から大石垣を通り本丸付近まで、安全に登れるようになりました。

観音寺城|山裾と景清道
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山裾にも観音寺城の遺構が数多く残されており、独特の雰囲気をかもし出しています。イノ馬場や教林坊などがあります。

観音寺城|近江源氏 佐々木六角
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近江国の守護大名であった佐々木六角氏は、観音寺山に石垣造りの大きな城を構えていました。多くの家臣がこの城域内に屋敷を構え主君を支えました。

後藤館跡

佐々木六角の有力家臣であった後藤氏は中羽田を本拠とし、当地に居館を構えていました。その館跡には今も、土塁や石垣、堀などの遺構が残されています。

布施山城
上羽田町、布施町、稲垂町にまたがる布施山(玉緒山)には、佐々木六角の家臣であった布施三河守の居城がありました。

観音寺城|後藤但馬守いざ登場

佐々木六角の有力家臣であった後藤氏は中羽田町の後藤館を居城とし、その他に観音寺城内の後藤丸、佐生城、雪野山城の 4つの城を構えていました。

近江後藤氏の系譜

戦国近江に名を残した後藤氏。蒲生の中羽田に居館が残っていますが、勢州軍記によると古くからの在地土豪ではなく、室町期に播磨からやってきたようです。

佐生日吉城

佐生日吉城の城主は後藤氏であるとされ、観音寺城の北方を守るための出城と位置付けられていますが、一部には後藤氏の居城・詰城という紹介も見られます。

Google雪野山瓶割山瓶割山城観音寺城近江源氏佐々木六角安土城案内板

雪野山♡しもはねだ里山天国について

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3月 24, 2016

山をあるこう・雪野山ガイドマップ

雪野山の山頂には雪野山古墳があり、山裾にも古代や中世の遺構が点在しています。これらの遺構は散策路で結ばれており低山ハイキングに最適です。

この雪野山を楽しむ為の情報は、”雪野山” や “安吉山”、”安妃山” などで検索するといろいろ出てきますが、その中に雪野山・安吉山(安妃山)全域とその周辺を紹介した “山をあるこう” というガイドマップがあります。

yamamap1

これは東近江行政組合で用意されたもので、山歩きを楽しむ為のお奨めコースや、この地域の歴史が紹介されています。たいへん丁寧にわかりやすく紹介されており、雪野山と安吉山の稜線を縦走する場合には必見です。

また、当方でも雪野山と瓶割山の散策ルート紹介した地図が用意しています。


ひらたの里山ルートマップ(PDF版)

なお、これらの地図にある “安妃山” の表記が “安吉山” の誤りではないかという指摘が WEB 上に見られますが、この点については こちら に説明がありますのでご覧ください。

そして雪野山と瓶割山を紹介した PDF パンフレット(全6ページ) には、雪野山古墳と瓶割山城跡の概要に加え、散策路やその周辺の見所が紹介されています。


ひらたの里山 パンフレット(全6ページ)を表示

さらに WEB を検索すると、ハイカーの方々による紹介ページが多く見つかり、これらを山歩きのガイドとして利用できます。

ヤマップ活動日記:雪野山・布施山・瓶割山

~2016
午後から雪野山 [山行記録]
山悠遊-滋賀湖東

【滋賀】 雪野山プチ縦走(安吉山、倉橋部山)
北緯34.5度から
次の⑲雪野山へ
雪野山の稜線を歩く
雪野山縦走
蒲生野に浮かぶ雪野山 お気軽展望ハイキング
古墳の山
瓶割山と周辺の山 
雪野山を縦走 滋賀県
瓶割山・腰越山・雪野山(要登録)
近江八幡・東近江 里山トレイル(雪野山縦走,瓶割山) (要登録)

2017~
瓶割山~岩原山~杓子山~安妃山
雪野山全山縦走と岩倉・瓶割山
近江平野④ 瓶割山~岩原山~杓子山~安妃山
瓶割山(T)

2018~
雪野山 雪を眺めて 山歩き
雪のない雪野山を縦走!
瓶割山-岩倉山-安妃山
自然観察指導員の四季
雪野山

2019~
雪野山縦走
雪野山(横山自然公園~杓子山)
瓶割山~岩倉山(小さな里山ハイク)
長光寺城(瓶割山)
雪野山縦走 ~こんなに展望の良いコースでした~
長光寺城|攻城団
雪野山縦走
岩倉山(いわくらやま)
雪野山とふもとの古墳群 その1(八幡社古墳群篇)

雪野山とふもとの古墳群 その2(登山口から展望台へ篇)

雪野山とふもとの古墳群 その3(鉄塔から雪野山古墳へ篇)

雪野山とふもとの古墳群 その4(雪野山古墳と岩場篇

雪野山とふもとの古墳群 その5(暁の広場へ下山篇)

雪野山【滋賀県東近江市】 8割がた縦走
雪野山山系の安妃山 その1 (駐車場から謎の石垣へ篇)

雪野山山系の安妃山 その2 (鉄塔と雪野山の峰越え篇)

雪野山山系の安妃山 その3 (安妃山散策路入り口篇)

雪野山山系の安妃山 その4 (天神社からみつばつつじの丘へ篇)

雪野山山系の安妃山 その5 (溜池展望台から南の盆の木跡展望台へ篇)

雪野山山系の安妃山 その6 (北の盆の木跡展望台から安妃山頂上篇)

雪野山山系の安妃山 その7 (腰越展望台から浄土寺バス停まで篇)
東近江市の御澤神社から瓶割山・その1(近江の名水と龍泉園篇)
東近江市の御澤神社から瓶割山・その2(瓶割山登り始め篇)
東近江市の御澤神社から瓶割山・その3(瓶割山一の郭と巨大石垣篇)
東近江市の御澤神社から瓶割山・その4(瓶割山二の郭と西古墳群篇)
東近江市の御澤神社から瓶割山・その5(瓶割山三の郭から麓へ篇)
雪野山・安妃山・岩倉山・瓶割山-2019-10-18
雪野山から安妃山 縦走 2PG

2020~
雪野山(横山公園〜杓子山登山口) 2020-01-13

雪野山縦走-2020-01-25
湖東の低山⛰️めぐり❣️/ やっぴいさん 2020.02.02(日)
雪野山・安妃山
雪野山を縦走だ!最後の1座が登れんかった(滋賀県)

低山をちょっぴり歩いて来ました 2020-02-26
滋賀県近江の低山周回 2020.03.01(日)日帰り
雪野山-2020-03-01
雪野山-2020-03-02
滋賀の山 雪野山-2020-03-070
雪野山山系の杓子山に登ってきました その1(美野里池から腰越峠へ篇)
雪野山山系の杓子山に登ってきました その2(腰越峠から杓子山へ篇)

雪野山山系の杓子山に登ってきました その3(展望台と麓の分水碑篇)

新しい靴✨慣らしの🥾雪野山ソロ-2020-03-13

2020-03-15 雪野山
玉緒山、瓶割山、雪野山(滋賀・東近江)
雪野山-2020-04-16

雪野山、安妃山 ※縦走 2020年04月22日(水) [日帰り]
第11話+第1走 瓶割山ー布施山など

雪野山~安妃山だと思ったんだけど-2020-05-17

自粛解禁の雪野山・安妃山を周回-2020-05-17
雪野山・瓶割山・船岡山・布施山周回-2020-05-17
布施山(玉緒山)・雪野山(龍王山)・安妃山
雪野山 – 2020年05月30日
童子山~雪野山~安妃山~腰越山~明神山~岩倉山~瓶割山_20200705
布施山(玉緒山)・紅粕山・瓶割山・岩倉山・安妃山・雪野山(龍王山)
雪野山・布施山・瓶割山
腰越山・明神山(杓子山)・瓶割山-2020-07-20

この続きは、
ヤマップ活動日記:雪野山・布施山・瓶割山をご覧ください。

あともう一つ、滋賀県文化財保護協会によって作成された、杓子山登り口付近にある明神池の紹介ページを見つけました。

新近江名所圖会 第72回 生命の泉-明神池-

ぜひとも、これらを参考に、下羽田の里山をお楽しみ下さい。

雪野山♡しもはねだ里山天国について

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3月 24, 2016

リンク集|地域の歴史と文化

この地域には忘れるには忍びない、豊な歴史と文化が残されており、この「里山天国」でもできる限り取り上げるようにしています。しかしそれだけでは十分にカバーできませんので、これらを紹介した外部サイトへのリンク集を用意しました。

 

雪野山♡しもはねだ里山天国について

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3月 23, 2016

観音寺城整備プロジェクト12

11月11日(土)に第12回、観音寺城跡秋季整備プロジェクトが行われます。
今回は大石垣の周辺だけでなく、伝後藤邸付近の整備も行ないます。参加を希望される方がおられましたら、yukio@jono.jo までご連絡ください。

このシラシは老蘇学区・安土学区向けの内容になっていますが、県内・県外を問わず誰でも参加できます。山城フアンのみなさん、奮ってご参加ください!

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10月 27, 2023

この街は美しい自然と歴史の宝庫

雪野山古墳を始め多くの遺構が残る雪野山一帯は、自然と歴史の宝庫です。かつて羽田荘と呼ばれたこの地域は、一帯に平地が広がりそれを見守るかのように周囲に山を配しています。

耕作にも軍事にも適したこの地では、在地の土豪が力を蓄え、戦乱の近江に数々の足跡を残しました。鎌倉から室町期にかけて南近江一帯は六角家が治めていました。この雪野山周辺でも六角統治や観音寺城を巡るさまざまな出来事があり、その姿を今に伝える遺構がいくつも残っています。

Clickひらたの里山 パンフレットを表示

六角統治と後藤氏の足跡


後藤館跡に残る石垣
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12月 8, 2022

近江後藤氏の系譜

戦国近江に名を残した後藤氏。今に残る幾つもの遺構が往時の偉業を伝えてています。しかしその一方、後藤氏の足跡が語られる事は殆ど無く、実像は闇の中に置き去りにされているかるようにも見えます。そこでいろいろ調べてみところ、幾つかの歴史書で近江後藤氏が取り上げられている事がわかりました。

近江蒲生郡志が語る近江後藤氏の足跡

東近江市中羽田町に居館跡を残す近江後藤氏は、佐々木六角家の重臣として代々要職を務めました。しかし永禄6年(1563)、家老職にあった後藤賢豊は、主君の義治に謀殺され、観音寺騒動 の発端となりました。
当時、後藤氏が本拠としていたこの地域(現在の中羽田町)は蒲生郡に属していました。そこでその地域史誌である蒲生郡志を紐解いてみたところ、巻二の第四編 「佐々木氏人志」に、近江後藤氏の足取りが紹介されていました。
その内容は東寺百合文書朽木家古文書宗長手記蒲生郡志荘園志および軍事志などから、後藤家の人物の足跡を時系列に追っています。付記された出自を参照すれば、より詳細な情報を得る事ができます。

以下はその、「佐々木氏 人志第十四章、後藤氏」の要約です。

後藤左衛門入道覚曇
永德元年12月 (1381)の東寺文書 に、山内代として、速水庄壇供米についての質問状が残っている。このころ山内氏は、速水庄に所領を有しており、庄内にある宝荘厳院領の代官交迭を望んでいたと記されている。差出人名は沙弥定誉となっている。

後藤正賢・後藤三郎左衛門高恒・後藤大和守高忠
長禄4年(1460)の東寺文書に後藤正賢ありと記されている。続いて、佐々木高頼の時、後藤三郎左衛門高恒あり但馬守に任ず。その子大和守高忠が高頼・定頼に仕えるとある。そしてこの2人についての記録が 朽木家古文書 に十余通残されていると書かれている。そこで 朽木データベース1朽木データベース2 にアクセスして “後藤” でページ内を検索すると、高恒と高忠の名が記された文書が多数見つかる。(併せて [資料] 朽木文書の研究(一) バックアップ を参照)
そしてこの中の、大永2年6月28日(1522)に出された朽木稙廣書状(朽文449)には後藤但馬守高恒の名が見られ、少なくともこの時期に、高恒が存命であった事がわかる。(要再確認)
なお、レファレンス共同データベース 滋賀県立図書館 (2110049) によると中羽田町に残る後藤館は、この後藤但馬守高恒による創建と推定されている。また八日市市史・資料Ⅰ471ぺジには「後藤高恒書状案」が活字化され載せられている。

朽木家古文書に残る、後藤高恒と高忠の発給書状。画像はクリック・ダブルクリックで拡大 

朽木家古文書・上(国立公文書館内閣文庫)第二十二軸には、後藤高恒と後藤高忠が発給した書状が23通載せられている。高恒と高忠が名を連ねている書状もあり、両人が同世代又は近い世代の人物である事が分かる。発給日は記されていいないが、高頼・定頼の奉公人として出されている事から、高頼・定頼と同時期に活動していた人物であることがわかる。

後藤高雄・後藤高佑
永正13年(1516)8月、伊庭の乱の時、佐々木氏の家宰として活動。
また巻九(軍事志)には、「後藤高雄 杉山藤三郎の戦功を賞す」というタイトルで、定頼の将、後藤高雄は被官の杉山藤三郎と共に戦に参加して敵首を打ち取り、定頼をからその戦功を嘉賞されたと記されている。
さらに朽木家古文書には、高雄が発給した文書も見られ、前述の高恒・高忠とほぼ同時期のものと推定される。他に高祐による発給書状も見られ、後藤氏の書状の発給は定頼の時期に集中している。

後藤豊前守高俊・後藤但馬守
永正16年(1519)4月、後藤豊前守高俊ありと記されている。続いて但馬守について、大永2年(1522)連歌師宗長が伊勢より来訪の際、定頼は但馬守を興夫として奉い出て迎えたとある。宗長手記二十七の條に、後藤但馬守(佐々木六角瓜牙の臣)による観音寺からの迎えの際には腰かき人夫が居た事など、道中の様子についても記されている。(八日市市史・資料Ⅰ298ページ、宗長日記を併せて参照)

後藤但馬守賢豊
佐々木義賢の時、但馬守賢豊が老臣として権勢をふるう。しかし、永禄6年(1563)但馬守賢豊は嫡男と共に、義賢の子、義弼に謀殺される。

後藤高治
家督を継いだ高治は、永禄11年(1568)観音寺城落城のあと蒲生氏に仕え、伊勢松坂からの会津縛封の戦に従軍。

後藤氏要人の花押蒲生郡志より転載
後藤三郎左衛門高恒・後藤高雄・後藤大和守高忠・後藤三郎左衛門尉氏豊・後藤但馬守賢豊恒・後藤高治

書状に見える後藤氏の足跡(内容の信憑性を確認中

朽木家古文書に、天文12年(1543)10月16日に後藤高雄が、野寺忠行との連名で差し出したとされる「近江守護(六角定頼)家年寄連署奉書案」が残っています。これは、朽木氏からの訴えを認めた六角氏側からの謝罪文のようです。その内容が「解室町・戦国時代の歴史・古文書講座」や「歴史と物語」で分りやすく解説されています。
さらに、「今堀日吉神社文書」に残る、天文18年(1549)年2月21日付けの「近江国守護奉行人連署奉書案」でも後藤高雄が野寺忠行と共に、差出人として名を連ねています。以下その文面からの引用・・・
「紙商買事、石寺新市儀者、為楽市条、不可及是非、濃州並当国中儀、座人外於令商買者、見相仁荷物押置、可致注進、一段可被仰付候由也。仍執達如件。天文十八年十二月十一日 忠行 [在判] 高雄[在判    ]枝村惣中」
この書状では、「枝村惣中」に対して、観音寺城下の石寺楽市楽座で、美濃紙の販売を特別に許可するという意向を伝えています。(参考:リアル!戦国時代 vol.39)
後藤高雄は奉書を、野寺(能寺)忠行との連名で差し出す例が多く、他の後藤家の人物と異なった動きをしているように見えます。また奉書等の文書では、少なくとも34年間にわたり高雄の名が確認でき、活動期間が他の後藤家人物とオーバラップしています。さらに官位名、親や子の名も伝わっておらず、後藤氏系図への反映には更なる調査が必要です。

また、早稲田大学図書館、古典総合データベース には、永正16年4月19日(1519)に後藤豊前守高俊が、種村中務丞貞和との連名で 杉山三郎兵衛 に宛てた、室町幕府連署奉書の写し が載せられています。これにより、高俊が六角政権内だけでなく室町幕府においても何らかの要職に就いていた事がわかります。朽木家古文書には他にも、後藤氏が差出人として名を連ねた奉書が残っています*?。

近江守護(六角定頼)家年寄連署奉書案

差出人:後藤高雄*?と野寺忠行*?との連名。出典:歴史と物語

近江国守護奉行人連署奉書案

差出人:後藤高雄*?と野寺(能寺)忠行*?との連名。画像出典:安土城考古博物館

室町幕府連署奉書

差出人:後藤豊前守高俊と種村中務丞貞和との連名。出典:早稲田大学図書館、古典総合データベース

連著奉書は複数の奉公人が連名で差し出す書状ですが、これに名を連ねた人物に言及される事はあまり無く、ついつい差出人の名を見落しがちまいます。「近江守護(六角定頼)家年寄連署奉書案」は「安土城よりも前に、観音寺城下で楽市楽座が開かれた」という事実を裏付ける資料として何度か目にしていましたが、その差出人が後藤高雄(野寺忠行との連名)であること、今まで気付きませんでした。
こうして書状を見てみると、後藤氏が歴史上的に重要な局面で奉書を差し出している事がわかります。

* 重要ここでは従来の通説、および八日市市史(資料Ⅰ 434ページ、近江国守護奉公人連著奉書案-天文19年/1550)での添え書きに倣って、「高雄」の署名を「後藤高雄」のものとしていますが、「池田高雄」のものである可能性が生じため現在調査中です。
調査経過:
2022/12/15
新谷和之氏による「戦国期六角氏の地域支配構造」では、石寺新市との繋がりが深い「得珍保」には「池田被官人」と同「三郎左衛門与力」がいたとし、この池田氏が「左衛門尉高雄」と同一人物である、という村井祐樹氏の比定を紹介している。さらにこの著書で、金剛輪寺の「下用帳」に六角氏被官として「能登右近大夫」の名がしばしば登場するが、近年の村井祐樹氏の研究により、この人物は、天文九年(1540)以降六角氏の奉書署判者として活動していた、能登忠行であることが明らかになったとしている。さらに、安土城考古博物館発行の「信長のプロフィール」でも「近江国守護奉行人連署奉書案」の署名人を、池田高雄・能登忠行としている。
これらを考え合わせると、署名人「高雄は池田高雄」、「忠行は能登忠行」である可能性が高い。
調査経過:
2022/12/17
その後の12月16日に入手した、「姓氏と家系第21号」所収の「近江後藤氏家系図の仮説的再構築(1)」では、「戦国大名佐々木六角氏の基礎研究研究」から以下の一文を紹介している。
以下引用・・・(中略)内政・軍事などあらゆる面で、戦国初頭から六角氏滅亡まで幅広い活動が見られるが、従来後藤氏とされてきた「高雄」は池田氏でる。(「補論」参照)・・・引用終り。
当WEB記事の執筆者としては、この説に納得しつつも、全ての「高雄」が池田氏では無く、「後藤高雄」も実在していたのではないか?という想いを捨てきれない。例えば、蒲生郡志に載せられている「高雄」の花押と連著奉書に署名されている「高雄」の筆跡が明らかに事なる事などから、後藤高雄は別人として存在していたように思える。
調査経過: 2022/12/28
八日市市史・資料Ⅰ423ページ所収の「近江守護奉公人連著奉書」に、高雄の署名が見られ、(後藤)と付記されている。日付は大永3年(1523)であり、蒲生郡志に記されている後藤高雄の世代と一致する。
またもう一人の署名人「宮木高祐」は、文亀2年(1501)〜大永3年(1523)の文書で名前が確認されており、世代的には六角定頼以前の人物である。このことを考え合わせると、「宮木高祐」と名を連ねている「高雄」は「池田高雄」では無く「後藤高雄」であるように思える。
その他の情報源:2023/11/29
今堀日吉神社文書に見る六角氏『楽市』と紙商売についての考察

近江後藤氏は播磨後藤氏の支流か?

蒲生郡志に後藤氏の名が出始めるのは室町時代の始め頃です。また、地名にも後藤の名は残っていない事などから、後藤氏は古くからの在地土豪では無いように思えます。では、後藤氏はどこから来たのでしょうか?

そこで情報を検索してみたところ、後藤基清の子孫 二人の【もとあき】というページに辿り付きました。この記事では、日本家系図学会発行の「姓氏と家系第24号」と勢州軍記の記事を引用し、播磨の後藤基明が近江後藤氏の祖であるとしています。以下にその記事の一部を引用・要約して紹介します。

基清基綱基隆基秀基明、(播磨)
|そして、基明覚曇但馬前司因幡守→…(近江)と続く

「勢州軍記」によると、近江後藤氏の祖は播磨国の住人「後藤三郎左門尉基明」とされる。
覚曇は「後藤左衛門入道覚曇」。永徳元年(1381年)東寺百合文書に山内代として「沙弥○○」とあり、端裏書に「後藤さ衛門入道覚曇」とある。但馬前司は「後藤但馬前司」永田左衛門四郎政国の娘がこの人物に嫁いでいる。[引用おわり]

※ 播磨後藤氏の祖とされる後藤基清は、佐藤仲清の子として生まれ、後藤実基の養子になって後藤家を継いだと伝えられています。参考: 藤原北家、利仁流系図藤原北家、房前流 佐藤氏系図

確かに、出典元の勢州軍記には次のように、近江後藤氏の祖は播磨の後藤三郎左衛門尉基明であると記されています。『・・・・・彼後藤但馬守者後藤兵衛実基之後胤。播磨国住人後. 藤三郎左衛門尉基明之嫡孫。其頃於六角家第一之臣下也』。
もしこれが誤りでなければ、近江後藤氏は播磨後藤氏の傍流(支流)という事になります。近江後藤氏の歴代の当主は,、後藤基明から受け継ぐかように「三郎左衛門」の名を名乗っており、播磨後藤氏の傍流であるという説と妙に符合します。
しかし基明は春日山城の初代城主であり、近江に来住した事をうかがわせる記録は見あたりません。よって、近江後藤氏の祖はその次の代の後藤左衛門入道覚曇とするのが妥当なところなのかも知れません。

近江後藤氏系図の仮説的再構築

日本家系図学会発行の「姓氏と家系第24号」所収の「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では数々の原資料を基に後藤家歴代の人物の足取りが追跡されています。
そしてそれに推察を加え「近江後藤氏の系図」が作成さています。各人物の生没年が殆ど不明である事などサックリとしたものですが、室町の前期から末期にかけての流れが、途切れる事なく導き出されています。
また、ある時期に同一世代と考えられる人の名が複数重複して見られる事から、後藤家が本家と分家に分かれた時期があったと推定しています。

本流(本家筋)系図   (系図レイアウトの再現には MS 明朝が必須)

この系図では、現在の能登川町佐生地区を本拠とし、佐生城の城主であった高種(流)を本家筋とし、津川城の城主であった高忠(流)が分家筋に位置づけられている。ちなみに高忠は高種の弟であるとされている。本家筋は代々、三郎左衛門・但馬守を名乗る傾向がみられる。そして正賢の子の代で分れた高忠(流)分家は、賢豊の代で本家に合流したとされている。

基明
 |後藤三郎左衛門尉
 |播磨春日山城城主
 |大和3(1354)討死
覚曇
 |左衛門入道
 |永德元年12月(1381)の記録に見ゆ
但馬前司
 |(*追)神宮文書所所蔵の永田氏に伝わる系図に、
 |永田左衛門四郎政国の子が但馬前司に嫁したとある
因幡守
 |(*追)実名は不明。建内記を拠に推定
将監
 |初め因幡左衛門尉
 |嘉吉3(1443)から文安4(1447)にかけて記録に見ゆ
正賢
 |寛正元(1460)の記録に見ゆ
 |
+――→[本流から傍流へ]――高種
 |三郎左衛門尉
 |佐生城主
 |文明7(1475)より同19(1487)にかけて記録に見ゆ
 +―――+―――+
 |      |     高俊  
高成     |豊前守・永正16(1519)の記録に見ゆ              
高恒     |永正5(1508)より同13(1516)にかけて記録に見ゆ                  
 |三郎左衛門尉・但馬守 
 |佐生城主 
 |明応5(1496)より大永6(1526)にかけて記録に見ゆ 
但馬
 |初め三郎左衛門尉
 |大永5(1556)の記録に見ゆ
 |
+←――[傍流から本流に]←―賢豊
 |重左衛門尉・但馬守
 |初め方政・或いは頼秀・綱宜・秀勝
 |永禄2(1559)から永禄5(1562)にかけて記録に見ゆ
 |永禄6(1563)卒
 +――+―――次郎左衛門
 |    |          |『氏郷記』に見ゆ
 |   氏豊         | 永禄6(1563)卒
 |    |又三郎・三郎左衛門・対馬守
 |    |天文21(1552)から永禄6(1563)にかけて記録に見ゆ  
高治   |永禄6(1563)卒
 |喜三郎、のち戸賀十兵衛尉と改名。或いは定豊・綱明
 |天生17(1580)卒

※ 付記 "(*追)" は当サイト管理人による補足

傍流(分家筋)系図 (系図レイアウトの再現には MS 明朝が必須)

蒲生の津川城を拠点とする高忠(流)傍系の流れ。津川城は中羽田の後藤館の事であると思われるが特定できる根拠が見当たらない。賢豊の代には本家筋に合流し、本家の名跡を継いだとされている。

+←――[本流から傍流に]←―――

高忠
 |大和守
 |蒲生津川(河)城主(後藤館カ)
 |明応5(1496)から永正3(1506)にかけて記録にみゆ
実方
 |播磨守
 |津川城主
 +―――+――+――+――+―-+―女子
 |      |    |    |    |  女子  |三雲左衛門成持の妻
 |      |    |    |   女子  |小倉左近大輔実資の妻
 |      |    |    |    |蒲生左衛門太夫賢秀の妻・氏郷母
 |      |    |  松禅院
 |      |   有茲  |比叡山法師
 |      |    |三郎左衛門   
 |   兵庫助伊勢国千草氏の養子  
賢豊    |上坂治部少輔の養子
 |重左衛門尉・但馬守
 |佐生城主後藤但馬守の名跡を相続
 |
+―――→[傍流から本流へ]―――→

この系図は、「姓氏と家系第24号」に収められている「近江後藤氏系図の仮説的再構築」から引用させていただいたものです。この精良な記事の著者、岩城大介氏の多大なるご努力に敬意と謝意を表します。

今一度見直したい通説

今回は、蒲生郡志と姓氏と家系第24号から、インターネット上の記事からは得られない多くの貴重な情報を入手できました。尤もそれらの中には仮説の域に留まっているものも含まれていますが、それはそれで議論を活性化させる上で貴重なものであると言えます。

今では、インターネット経由で誰もが簡単に有用な情報を見つけ出す事ができます。そこで、ネット上の情報と今回得られた新情報とを突き合わせてみみました。すると半ば定説化しているものの中にも、真偽を見直さざるを得ないほどの乖離がいくつも見つかりました。特に次の5つの中には定説というよりもむしろ、単なる俗説としか思えないものの見られます。

後藤賢豊の父は但馬守?
Wikipediaなど、後藤賢豊を紹介する多くのサイトでは、後藤賢豊の父の名を「但馬守」としています。しかし、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では両者の活動時期がほぼじである事などから、但馬守は賢豊の父では無く「はとこ」(祖祖父が同じ)に位置付けています。正賢の次の代で本家と分家に分かれたという事を前提とするならば、この説は世代的にも符合します。また氏郷記では播磨守の嫡男を但馬守、そしてその妹(おきり-出自不明)を蒲生氏郷の母としており、これが正しければ賢豊の父は「但馬守」では無く「播磨守」であるという事になります。(八日市市史・資料Ⅰ308ページ、氏郷記-後藤兵乱之事を併せて参照)

義治に謀殺されたのは、賢豊と壱岐守の2人?
Wikipediaの後藤賢豊観音寺騒動のページには、観音寺騒動で後藤賢豊とその子の壱岐守が殺害されたとあります。他の記事でも同様に紹介されており、殺害されたのは父子2人であると受け取れます。
しかしこの「近江後藤氏系図の仮説的再構築」には賢豊の子として「次郎左衛門」の名が示されており、その没年が賢豊と同じ永禄6(1563)になっています(出典:氏郷記 *討死とされている)。
また「長享年後畿内兵乱記」には、父子3人が殺害されたとあり、観音寺騒動で殺害されたのは2人ではなく3人であるというのが真実かも知れません。* 以下出自-「長享年後畿内兵乱記」、引用「六角氏式目制定の目的と背景」: 十月一日、為佐々木四郎殿後藤父子三人生害、然者永田刑部少輔三上池田進藤平井其外後藤家来衆自焼、面々館江取退、干時観音寺騒動・・・(八日市市史・資料Ⅰ295ページ、長享年後畿内兵乱記を併せて参照)

賢豊の嫡男の名は壱岐守?
Wikipediaや、故田中政三氏の著書をはじめ、多くの記事では賢豊の嫡男の名が「壱岐守」という官位名で紹介されています。しかし今回調査した資料からは「壱岐守」の名を見付ける事ができませんでした。
そこで「近江後藤氏系図の仮説的再構築」を見ると、賢豊の嫡男の名として、氏豊(又三郎・三郎左衛門・対馬守)の名が示されており、天文21(1552)から永禄6(1563)にかけて記録に見ゆと付記されています。蒲生郡志でも氏豊の花押が紹介されており,、天文21年8月20日(1552)の六角氏奉公人連著奉書にも能登忠行と共に署名しており、後藤氏豊が実在したことに誤りは無さそうです。
このようなことから、賢豊の嫡男の名は「壱岐守」では無く「氏豊」(後藤対馬守氏豊)と考えるのが妥当なのではないでしょうか?

後藤氏豊と能登忠行との連による六角氏奉公人連著奉書:天文21年8月20日(1552)発給。長命寺蔵。新谷和之著、図説 六角氏と観音寺城より

観音寺騒動、捨てきれない3月勃発説
Web上では後藤賢豊が謀殺された観音寺騒動の勃発は、永禄6年(1563)10月1日が通説として定着していますが、「10月ではなく3月」説も根強く残っています。複数の古文書に3月勃発の記載があり、賢豊の本拠地である中羽田町に3月勃発説を裏付けるかのような風習が、最近まで残っていたようです。それは、賢豊の死を悼み「3月節句の行事は一切行わない」というものです。
これについては、冊子「八日市市の昔ばなし-孫にきかせる」で紹介されています。もしこの風習が古くから受け継がれてきたものであったとすると、3月勃発説の信憑性を裏付ける、根拠の一つになるのではないでしょうか?

中羽田町に残る風習

冊子「八日市市の昔ばなし-孫にきかせる」より

以下、古文書に記された観音寺騒動勃発時期の一覧を、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」から引用させていただきました。

文書の成立 文書の名前 騒動の勃発
永禄6年(1563) 厳助往年記 永禄6年10月
元亀 3年(1572)頃 兼右卿記 永禄6年10月1日
天正末期(1590-1592) 足利李世記 永禄6年
寛永10年(1633)頃 氏郷記 永禄6年3月15日
寛永15年(1638)以前 勢州軍記 永禄6年3月
明暦2年(1656) 江源武艦 永禄6年3月23日
延宝6年(1678)以前 長享年後畿内兵乱記 永禄6年10月1日
元禄3年(1690)以前 永禄以来年代記(年代記抄節と同じ) 永禄6年10月1日
元禄8年(1695) 蒲生軍記 永禄6年3月15日
元禄年間(1688-1701) 浅井三代記 永禄7年3月23日
宝永年間(1703-1711) 続応仁後記 永禄6年春
享保19(1734) 近江輿地史略 永禄6年3月23日
安永年間(1772-1781) 端石年代雑記 永禄6年10月11日
明治35年(1902) 氏郷記(再校) 永禄6年3月15日

この一覧を見る限り、勃発した年に近い文書では、通説通り10月とするものが多いようです。しかし、「氏郷記」をはじめ、3月とする文書も多く、安易に3月説を捨て去ることはできません。
また、初出の「厳助往年記」は作者である厳助が自らの日記をもとに、賢豊が殺されたとされる永禄6年に文書化したものであり、一次情報に極めて近いものとして評価できます。この文書の写本が国立公文書館デジタルアーカイブ に載せられています。

厳助往年記:国立公文書館デジタルアーカイブ から引用

賢豊が殺されたとされる永禄6年の出来事は、この閲覧データ末尾の 117-120ページに収められています。観音寺騒動については、7月18日の日付の欄(119ページ後半)に「江州観音寺城滅却及乱事」という記載が見られます。尤もこれは、観音寺騒動が起こった日というよりはむしろ、伝え聞いた一連の騒動を記した日と捉えた方がよさそうです。もしもしこれが、7月末の出来事またはそれを記した日であるとすると、10月の2カ月以上も前に騒動が起こっていた事になり、10月説とは符合しません。騒動勃発の時期については、未だに情報が錯綜しており、コンセンサス形成までの道のりは長そうです。

佐生城は、観音寺城防衛の為の単なる軍事拠点?
能登川町の佐生地区には、後藤氏の築城とされる佐生城跡があり、後藤但馬守の名が刻まれた石標が建てられています。ホームページで見かける解説の多くはこの佐生城を、観音寺城の支城と位置付けてています。
しかし、「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では、この城は後藤氏の居城であり、中羽田の後藤館に拠点を移すまでは、ここが本拠であった可能性を指摘しています。また佐生城の元々の城主は葛岡氏であり、永正期(1504-1521)に後藤氏に改替えされたと推定しています。さらに、蒲生郡志巻二 526ページでは、近江輿地誌略 を引用し佐生地区も後藤氏の住地であったとしています。また史誌「能登川の歴史」でも、下屋敷の存在も含め、佐生城が後藤氏の居城であったと推定しています。

そして、六角研究者である佐々木哲氏のブログでは城郭研究者である長谷川博美氏の「例えば後藤氏の佐生城などは、本城である観音寺城に楯突く様に、石垣が普請されています」との見解が披露されています。
戦国期には観音寺城の支城として、軍事的に重要な拠点であった事に疑いの余地はありませんが、元々は後藤氏が観音寺城を守る為に築いた城では無かったようです。

後藤館の実名は津川城?
後藤氏の居館が中羽田町に残っており県の史跡にも指定されています。しかし「近江後藤氏系図の仮説的再構築」によると後藤館という名は、大正11年(1922)に発刊された蒲生郡志が初見であり、その出自も示されていないとの事です。しかしその一方、「蒲生氏系譜伝」及び「蒲生氏郷考」所収の系図には「津川城主」、そして「佐々木南北諸士帳」宝暦3年(1753)の筆写には「津河城」の記載があるとされています。
この事から「近江後藤氏系図の仮説的再構築」では、江戸期に「津川(河)城」の伝承が途絶えた後、明治期になって「後藤館」の名が新に使われ始めたのでなないか?と推定しています。また、滋賀県立図書館調査協力課の見解は、「後藤館は「津川(河)城」と比定され得る位置にある」との事です。
現役の頃に使われていたであろう「津川城」の名が葬りされててしまうのは口惜しい限りです。なんとか真相を究明して、「津川城」の名を後藤館の名前の脇にでも付記したいものです。
しかし中羽田と蒲生一帯には「津川」の地名は残っていません。そこで「津川」の「津」の字について調べてみたところ、「河口・泉など、水の湧き出る場所」を意味するようです。
後藤館の一角には、昭和の中期あたりまで池があり清水が湧き出ていました。そしてその水は後藤館の土塁の前に掘られた堀を満たし、さらに小川を通じて下流に流れ、私が住む下羽田の農業用水としても使われていました。この付近には白鳥川や布引川が流れていますが、この地に源泉(津)持つ川は他に無いので、これを「津川」と呼んで区別していたのではないでしょうか?
以上、この地に水源を持つ「津川」という川があり、その源流付近に建つ城なので「津川城」と呼んだというのが、私の安直な仮説です。

関連情報-後藤堀の清水:
板谷宇一家文書として残る「下羽田村願書案」(水利相論に関わる文書)で「後藤掘清水」について言及されている。この文書は慶安3年(1650)に作成されたものであり、江戸の初期には後藤館の周囲に掘られた「堀」の名が(小字名)後藤掘として定着し、そこに湧く「後藤掘清水」が農業用水として利用されていたことが分かる。(八日市市史第六巻・資料Ⅱ 271ページ参照)。また板谷宇一家文書「後藤掘出入りにつき下羽田村覚書」でも同様の史実が記されている。八日市市史第六巻・資料Ⅱ 277ページ参照)

近江後藤氏の人名一覧

近江後藤氏の祖?:後藤三郎左衛門尉基明。
近江で初見の後藤氏人物:後藤左衛門入道覚曇(後藤□□(定誉ヵ)書状)
本流?近江後藤氏
後藤但馬前司・後藤因幡守・後藤将監(初め因幡左衛門尉)・後藤正賢・後藤三郎左衛門尉高種・後藤三郎左衛門尉高恒・後藤高成・後藤豊前守高俊・後藤三郎左衛門尉高雄(左衛門尉・伊予守)・後藤但馬守賢豊(重左衛門尉。初め方政・頼秀・綱宜・秀勝;後藤秀勝)・後藤喜三郎高治(のち戸賀十兵衛尉と改名。あるいは定豊・綱明)・後藤対馬守氏豊(初め又三郎・三郎左衛門)・後藤次郎左衛門。
傍流?近江後藤氏
後藤大和守高忠・後藤播磨守実方・後藤兵庫助・後藤三郎左衛門有茲・松禅院。

先達の方々の多大な努力に敬意と感謝を表しつつ、ここでひとまず締めくくりとします。

PDF版ダウンロード

併せて 佐生日吉城後藤館跡後藤但馬守いざ登城 をご覧ください。

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11月 17, 2022

瓶割山に登ってみませんか?

2023年11月23日、瓶割山ハイキングを実施します。

今年ものろし駅伝の日に、瓶割山ハイキングが予定されています。昨年は雨で中止になり、そのリベンジとして昨の計画通り、長福寺町側の登山口から登ります。
当日の配布資料

詳しくは、以下のチラシをご覧下さい。

申し込みはは不要です。戦国山城や山歩きが好きな方はお気軽にご参加ください。

PDF 版 チラシ をダウンロード

第2回瓶割山ハイキングは、雨天のため中止されました。

2022年ものろし駅伝の日に、瓶割山ハイキングが予定されていましたが、雨天のため中止されました。

第1回瓶割山ハイキングは、天候にも恵まれ無事終了しました。

11月23日、のろし駅伝の日に瓶割山ハイキングが実施されます!無料でだれでも参加できますので、お気軽にご参加ください。


※ 瓶割山のイラストは、「近江八幡まち探検」より引用。

瓶割山は元亀元年に、六角勢との戦いのため柴田勝家が布陣したとされる城跡が残っています。
柴田勝家は劣勢の中、貴重な飲み水の入った瓶を割って兵を鼓舞したという逸話が残されおり、この事により、この山が瓶割山と呼ばれるようになりました。

開催日時:
2021年11月23日(祝日)9:00~11:30 小雨決行
コ-ス  :
鳴谷登り口→二の郭→一の郭 →主要部散策→鳴谷登り口
集合場所:鳴谷自治会館前
申し込み:不要(8時50分に現地で受付)
参加費用:無料
問い合せ:平田コミュニティセンター(0748-22-1950)
主催    :平田再発見編集委員会

PDF版 ちらしダウンロード


瓶割山散策路ルートマップ PDF版 ダウンロード

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10月 20, 2021

1メートルの高さで竹を刈る

竹は根に養分が蓄えられており、伐採してもすぐに新しい竹が生えてきます。しかし、最近、1メートルのさで竹を刈ると、養分が吸い上げられて根が腐ってしまい、竹が生えてこなくなるという話をよく耳にします。そんな簡単な方法で竹を駆除できるなら、やらない理由はありませんので、最近はこの1メートルルールで竹を刈っています。

とはいうものの、そんなに簡単に竹を駆除できるはずななく、半信半疑のままこれを実践しています。しかし好ましい兆候も見られ始めています。

例えば、以下の冒頭の横長の写真は、去年から今年にかけて1メートルルールで伐採した現場を写したものです。残念ながら伐採直後の切り口の様子は確認していません。そしてその下の4枚の写真は、今年伐採し、その直後に撮影したものです。なんと切り口から、樹液のようなものが大量に噴き出しています。

おそらくこれは、根に蓄えられた養分が吸い上げられているのだと思います。大なり小なり他の竹からも噴出しており、あたり一面に異様な匂いが漂っています。推論ではありますが、根の養分が大量に浪費されており、これなら竹の再生が抑えられるのではないかと期待しています。

また、以下の写真は竹藪の一部の竹を1メートルで伐採した場所の様子です。1メートルで伐採した周囲の竹だけが枯れ始めています。これもこの伐採方法による成果かもしれません。

この伐採方法については、結果を系統的にモニタリングしていませんので断言はできませんが、かなり有効な方法であるという感触を得ています。

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9月 14, 2021

大手道を登りたい!

お城の大手道と言えば外す事ができない幹線道路です。ところが観音寺城では藪に埋もれ、まさに「まぼろしの大手道」と化しています。しかし、もの好きな山城フアンとしては、何とかこの藪を退治して大手道を登りたいという想いを捨て切れきません。

このように藪に埋もれた大手道ですが、現在ではいくらか道筋の掃除が進み、立ち入れる区間もあります。以下の写真は、射場と伝えられているあたりの写真です。大手道の途中、ちょうど後藤邸・進藤邸の直下にあり、見上げると後藤邸下段の石垣が目に飛び込んできます。

この道筋の写真は、観音寺城-大手道を登る 、観音寺城-追手道から大手道へ観音寺城跡-2022-04-16 午後の部 にも掲載していますのでご覧ください。またこの道筋で行われている、竹の伐採方法については、1メートルの高さで竹を刈る をご覧ください。

なお、この大手道は足元が悪く危険な箇所もあります。このため、立ち入りはお奨めできません。

また以下は、2023年元日に撮影した、的場付近からお花井戸郭あたりまでの写真です。

スライドショーには JavaScript が必要です。

画像はクリックで拡大できます。

YAMAP 活動日記 を併せてご覧ください。

以下は2023年12月25日に撮影。 画像はクリックで拡大できます。

観音寺城|本谷プロジェクト

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6月 4, 2021

ひらたの里山パンフレット

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6月 19, 2020

植栽による景観の変化

安妃山の里山整備が始まってから 15年以上たちました。その間に植えた桜やツツジなどもも育ち、こんなに風景が変わりました。

植栽の直前/直後の写真と現在の写真とを並べてありまが、写真を撮った季節が一致していないので、できれば半年後くらうに冬場の写真を撮って、ここに追加したいと考えています。

腰越山裾

腰越峠道

PDF で見る

宮山入口

 

雪野山♡しもはね里山天国について

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6月 2, 2019

子供会の植栽 2019

腰越山の登り口には多くツツジが植えられていますが、この植栽は子供会の行事として行われたもので、 10年以上続いています。そして今年も子供たちが集まりツツジを植えてくれました。

近年、下羽田町では子供の数が増え、植栽作業も年を追うごとに活気が増してきます。頼もしいかぎりです。

子供会のみなさん、ごくろうさんでした。

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4月 3, 2019

瓶割隊|ひらたの里山-ほぼ全域の縦走ルートが開通

瓶割隊では 雪野山安妃山 散策道と 瓶割山 とを結び、平田地区の里山を端からから端まで歩き通せる縦走ルートを完成させる事を目標にして、里山整備活動を行っています。

雪野山と安妃山では公的事業とボランティア活動によって、早い時期に縦走ルートが完成していましたが、瓶割山の東近江側については手つかずの状態でした。

そこで 2017年の中旬から「瓶割隊」の名のもとに瓶割山の散策道の整備を始めました。そしてここにきてようやく、一通り道が通り何とか縦走できるようになりました。

ひらた里山縦走ルート(PDF版)

瓶割山の散策ルートは、まだまだ「ハイキングコース」として快適な山歩きが楽しめるレベルには達していません。また一部には足元が悪い箇所が残っています。しかし全体的には「準ハイキングコース」と言って良いレベルには達しているのではないかと思います。

雪野山や安妃山と同じ様に瓶割山にも複数の登山道がありますので、山中で周回したり、引き返すことなく途中で下山する事もできます。また道筋の要所には現在地を示した地図を設置しでありますので、迷う心配は少ないと思います。

瓶割山には柴田勝家が布陣した城跡があり、石垣などの遺構を楽しむ事ができます。雪野山にお越しの際には、瓶割山まで足を延ばし、歴史ロマンあふれる山歩きをお楽しみください。

お掃除した場所と時期

瓶割隊は、瓶割山だけでなく「ひらたの里山縦走ルート」の起点となる雪野山でも活動しています。

瓶割山

東近江側の城跡エリアと登城道は長期間利用される事なく放置されていた為、人が立ち入れないところが多かったので、さしあたり普通に通れるように、雑木と雑草を刈り取りました。

 

雪野山

瓶割山の地図と写真

ひらたの里山ルートマップ

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瓶割山の散策ルートの全貌

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鳴谷峠道から城跡に続く道

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明治 24年の瓶割山

昭和23年の瓶割山

昭和36年の瓶割山


昭和50年の瓶割山

なお瓶割隊は、2018年7月に平田地区のまちづくり協議会に ボランティア登録 を行い、緊密な連携に基づいて活動しています。

瓶割隊の活動履歴

2016年  1月:上平木の日吉神社ルート-貯水槽上の道筋を確認 
2017年  4月:雪野山古墳から平石盆の木跡の間を刈払い
2017年  9月:瓶割山、東近江側の刈払い
2018年  6月:雪野山のベンチ・防火用水設置周りを刈払い
2018年  7月:雪野山ルートマップの設置
2018年  7月:女坂分岐点の刈払い他
2018年  7月:鳴谷峠道の西側斜面ルートを確認
2018年  7月:鳴谷峠道ルートの刈払い
2018年  7月:暁の広場と天満宮連絡道の刈払い
2018年  8月:瓶割山旧道ルートの紹介
2018年10月:暁の広場への下山口の刈払い-1回目
2018年10月:瓶割山城跡の東近江側散策ルートについて
2018年12月:瓶割山に地図を設置
2019年  3月:瓶割山・上沢ルートの尾根分岐点を刈払い
2019年  4月:暁の広場への下山口の刈払い-2回目

瓶割隊活動報告 – 平成 29/30年度  瓶割隊活動報告 – 令和1年度

ひらたの里山パンフレット

ひらたが誇る雪野山と瓶割山を紹介する PDF パンフレット(全6ページ) を用意しました。


ひらたの里山 パンフレット・フルバージョン(全6ページ)を表示
※ このパンフレットは、平田地区まちづくり協議会発行の冊子「平田再発見」の原稿からの抜粋です。

瓶割隊ではモニタリング隊員を募集中です!

瓶割隊では年間を通じて瓶割山と雪野山の散策コースの整備と維持活動を行っており、主要ルートは、散策に支障が出ない程度の状態には保たれているはずです。しかしその印象は人によって異なります。また見落とされている箇所も多々あると思います。

そこで瓶割隊では、瓶割山や雪野山を歩かれた時の印象を報告していただける方々を募集しています。「暇つぶしに出かけててみたらこんな感じだった」という程度で結構です。こちらから「状態を見に行ってください」などというような、お願いをする事はありません。

また、これにご協力いただける方については「瓶割隊のモニタリング隊員」としてお名前と、どのあたりに住んでおられるのかを事前に把握させていただきたいと考えています。

もしこのモニタリング活動にご協力いただける方がおられましたら、yukio@jono.jp までご連絡いただけるようにお願いします。

 

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3月 23, 2019

里山ハイキング 2018

5月20日、恒例の下羽田里山ハイキングを行いました。

今年は家族連れでの参加が 2組ありました。また天候にも恵まれ、大岩展望台からは伊吹山はもとより、琵琶湖越しに比良山が良く見えました。 そして杓子山山頂付近では、マウンティングバイクで尾根ルートを縦走されている方に遭遇しました。

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5月 24, 2018

子供会による植栽 2018

腰越山の登り口には多くツツジが植えられていますが、この植栽は子供会の行事として行われたもので、 10年以上続いています。そして今年も子供たちが集まりツツジを植えてくれました。

そして植栽が終わった後、少し山歩きを楽しみました。

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3月 26, 2018

春の雪野山ハイキング 2018

2018年 4月22日(日)、東近江市エコツーリズム推進協議会の主催による「春の雪野山 自然観察&ハイキング」が実施されます。

この時期の雪野山は、散策道の沿いに群生しているミツバツツジが咲きそろい、大変きれいです。また今回のコースはハイキングレベルの初心者から中級者までが幅広く楽しめるようになっているそうです。

内容のの確認と参加のお申込みは、東近江市エコツーリズム推進協議会 まで。

追記:2018年4月23日
天候にも恵まれ無事終了しました。

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3月 9, 2018

瓶割山城跡の大掃除

山中にある城跡では夏になると草木が生い茂り、散策道が塞がったり遺構が覆われてしまったりします。瓶割山城跡 も例外ではなく、近江八幡市側の方々によって良く管理されている一の郭でさえ、すっぽりと笹に覆われてしまいます。一方、殆ど手入れされていない東近江側のエリアは深いブッシュに埋まり、この「しもはねだ里山天国」で紹介している散策ルートにも立ち入れない状態になります。

散策道の東側は深いブッシュ

東近江市側のブッシュが消滅

そこで、管理関係者の了解を得て草木と笹を刈取りました。

刈取り場所は、一の郭の東近江市側と、ニの郭の虎口筋
 

最新の様子 – さらに刈取り!

冬と夏ではこんなに違う

 

以下は刈り取った後の様子です。写真はクリックで拡大します。最新情報はこちら

一の郭の北東部

一の郭の堀切に架る、土橋の付近

ニの郭の虎口筋

こちらの PDF ドキュメント を併せてご覧ください。

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8月 26, 2017

下羽田と中羽田の境界

下羽田町と中羽田町は隣接しており、雪野山の山中にも境界線が定められています。下羽田側の地権者に確認したところ、中羽田側の地権者との境界には道が通じており、マーキグしてあるという事でしたので、その道を歩き写真を撮りました。写真撮影に際しては道が塞がっているところの刈り取りと倒木の処理を行いました。
地権者が定めた境界筋の写真

さらに、その地権者が定めた境界と地図上に示されている下羽田町と中羽田町の境界線を比べてみたところ、若干違つていいるようでしたので、地図上に示された境界線を辿り写真を撮り直して差し替えました。山裾の手前 100m くらいところで双方の違いが出始めて、少しずつ広がっています。
地図上に示された境界筋の写真

境界線 (Google Map)

集落との位置関係

境界線を下る

また、地図上の境界線の山裾近くには古墳がありました。

この山の山中に入ると、公的な資料には示されていない古墳に出くわす事が良くあります。

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5月 27, 2017

里山ハイキング 2017

5月21日、恒例の下羽田里山ハイキングを行いました。

昨年に続き家族連れでの参加がありました。暑い中、子供達は元気いっぱい山歩きを先導してくれました。そして今年も子供達から元気をもらう事ができました。

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5月 22, 2017

雪野山・謎の散策道

雪野山の古い案内板に描かれている、今は使われていない謎の散策道 を歩いてみました。尾根筋からの入口付近は深い繁みに覆われ、道が全く見えなかったので、管理者の了解を得て草木を伐採させていただきました。


八日市市教育委員会 「雪野山古墳Ⅲ」

案内図では中腹あたりで道が終わっています。この終点は 広場になっており休憩所 が設けられています。以前この場所は、地元平石地区の年中行事である「盆の木」に使われていたそうです。
また、この道の入り口は、雪野山古墳の墳丘の一角にあります。雪野山古墳は前方後円墳ですが、この道はちょうどその「前方」部分の先頭あたりから延びています。この道の階段が、八日市市教育委員会「雪野山古墳Ⅲ」に示されており、この図を見ると雪野山古墳との位置関係が良く分かります。2017年5月18日に撮影。

* 写真はクリックで拡大できます

* 5月18日に写真を更新しました。    道筋の写真 PDF 版

なおこの道の 入口には「この先行き止まり」の案内 がありますが道は続いており 天満宮 のところに下山できます。

休憩所から少し下ったあたりには 立派な石室 を持つ 古墳 があります。またところどころに古い石段らしきものもあり、以前は雪野山山頂に通じる主要な道として使われていた様子が伺えます。

しかし現在この道は管理されておらず危険ですので、通行はお奨めできません。

この付近の航空写真。昭和 24年撮影

この写真にはここで紹介した謎の散策道が写っている。

なお、この空中写真は、国土地理院長の承認を得て、米軍撮影の空中写真を複製したものです。 (承認番号 平29情複、 第28号)。また、この空中写真を複製する場合には、国土地理院の長の承認が必要です。

また後日、久しぶりに暁の広場(平石地区の中央付近)に下山するルートを歩いてみました。

この道も十分に管理されている状態ではなく、草に覆われて道筋が見えなくなっているところがありました。特に、尾根から下山道への入口にはウラジロが生い茂っており、どこに道があるのかよくわかりませんでした。なおこの道は山裾付近で 2手に分岐しており、一方は暁の広場に通じ、もう一方は天満宮手前付近で、雪野山古墳から下る謎の散策道に合流します。

しかし道筋は倒木などで塞がっているところはなく、生い茂った草を踏み越える事により何とか通行できました。

 

暁の広場付近に下る道

道筋は十分な管理が行われていない。倒木などで塞がってしまっているところは無いが、生い茂った草を踏み越えないと通れないない所がある。 2017年6月3日撮影。

暁の広場に下山 PDF(低解像度)

南東側の端の道

尾根の南東端から、平石地区のはずれに下る道の様子を紹介します。写真は 2016年 5月13日に撮影。

道筋は良く管理されており、生い茂った草や倒木で行く手を阻まれるようなところはない。 山頂から山裾までの距離は長いが途中にあずま屋やベンチがあり、腰を下ろせる。

南東の端の道を下山 – PDF  JPEG

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4月 30, 2017

はじめての山登り講座 雪野山

森と水のエコツアー2017  はじめての山登り講座 雪野山

eco201704a

eco201704b

平成29年4月16日(日)に「はじめての山のぼり講座」の開催が予定されています。
安妃山(雪野山北西部)杓子山登り口から登り、雪野山古墳まで尾根を縦走した後、八幡社古墳群あたりに下山します。

詳細は、東近江市エコツーリズム推進協議会の ホームページ または Facebook をご覧ください。

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3月 28, 2017

子供会によるツツジの植栽

腰越山の登り口には多くツツジが植わっていますが、これは子供たちの手によって植えられたものです。この植栽は子供会の行事として毎年行われており、里山ボランティアグループも花壇の企画・造成や苗木の手配などのお手伝いをしています。

IMG_0156

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そして植栽が終わった後、少し山歩きを楽しみました。

年を追う毎に子供の数が増え、盛り上がりが増してきています。頼もしい限りです。

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3月 27, 2017

大岩展望台 10年間の変化

里山ハイキング

2016年5月22日、里山をハイキングしました。当日は雨の心配はなくまずまずの天気の中、予定ししていたコースを無事に歩き終える事ができました。

今回のハイキングでは歌坂から出発して、まず尾根筋の溜池展望台まで登りました。そして景観を楽しみながら尾根を縦走した後、 山裾の散策道を通って歌坂登り口まで戻りました。

またこの日は、モヤがかかっていて展望台からの見晴らしがイマイチでした。以下は大岩展望台の様子ですが、モヤだけでなく立木の成長によっても視界が遮られている事が分かります。

以下の写真は 6年前の 5月に大岩展望台から撮影したものですが、天気が良い日には琵琶湖や比良山、伊吹山が良く見えました。

大岩展望台の 10年間の展望の変化

今回のハイキングでは立木の成長により徐々に視界が遮られてきている事が分かりました。そこで、大岩展望台の10年間の変化を写真で追ってみました。

2007年 1月 3日

これは整備の手が入っていないころの写真。整備に入る前から十分な展望があった事が分かる。

2008年 2月25日

この頃もまだ、斜面の立木の伐採は行われてない。展望は 2007年 1月3日の写真からあまり変わっていないように見える。

2010年5月13日

新緑の若葉によって立木はボリュームアップしているが、まだ展望は十分確保されている。

2016年 3月 1日

暖冬の2016年、雪の降った日に撮影。2007 年の写真と比べると立木がだいぶ成長し、枝が上平木集落を覆っているが、枝に葉が付いていないので視界に大きな影響は無い。

2016年 3月12日

2016年の冬。成長した立木の枝が上平木集落を覆っている。

2016年 5月24日

2016年の春。立木が若葉によってボリュームアップし、岩倉と上平木方向の視界を塞いでいる。同じ季節に撮影した2010年 5月13日の写真と比べると、6年間の立木の成長と視界の変化が良く分かる。

このように木々は着実に成長しますので、景観の維持には計画的な管理が必要になります。

追記:2017年 5月26日

2017年の春。展望を塞いでいた立木を伐採。
種の保存の観点から、根本から切り倒すのではなく、地表から 2-3m くらい上の位置で切断。

これにより小学生の背丈でも立木に遮られる事なく、美しい田園や町並を見渡せるようになった。
伐採前(写真左)と伐採後(写真右)の比較

これでほぼ 10年前の状態に戻ったが、成長の早い松と広葉樹により 2-3年後には再び視界が狭められる事が予想される。

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5月 26, 2016

君の名は安吉山?それとも安妃山?

山の名前はひとつとは限りません。

下羽田の里山には、「安吉山」と書かれた案内板と「安妃山」と書かれた案内板が混在していますが、どちらも誤りではありません。どちらとも「あぎさん」と読みます。「あきさん」「あんきさん」とは読みません。

安吉山・安妃山

もともと下羽田の里山にはその全域を指す名前がありませんでした。確か小学校では “雪野山”と習いましたが下羽田で “雪野山” というと上羽田の雪野山古墳あたりが思い浮かぶ為、地元では 下羽田の里山を “雪野山” とは呼んでいません。

もっとも下羽田で “山に行く” といえば下羽田の里山に決まっているので名前は必要ありません。しかし他の地域の方々に道案内をする場合にはそういう訳にはいきません。

特に雪野山古墳あたりから中羽田の女坂を超えて尾根を縦走される方々に対しては、これより先(雪野山古墳の反対方向)に直進すれば何処に辿り着くのかを案内する必要があります。そしてその名は “雪野山” 以外でなくてはなりません。そこでハイカーの方々に対しては “安吉山” の名でこの山をご案内する事になり、女坂からの登り口に “安吉山縦走コース” という案内板を設置しました。

この “安吉(山)” の名はこの山の山中にある 愛樂寺 の山号に使われている他、山裾には 安吉神社 も現存します。また雪野山の山中にある 3つの天神社は “安吉三天神” と呼ばれています。さらにこの地域の歴史を紹介する案内板や情報ページでも安吉山、安吉橋、安吉川、安吉氏、安吉郷など “安吉” の表記が数多く見られます。このように雪野山の北西部を中心に「安吉」の名が多く残っており、このあたりの山の呼び名が「安吉山」であった事が容易に想像できます。 * 関連情報

さらに調べてみると ” 安義橋 ” や ” 阿伎里 ” などのように、”あぎ” の漢字表記にはいくつかのバリエーションがあるようですが、古い時代に使われていたこの “阿伎” と “安義” はすでに、 “安吉” に収束した感がありす。

しかしその一方、東近江側では “安吉” ではなく “安貴” と “安妃”が近年まで使われてきた痕跡が残っています。例えば中羽田の山裾には、”安貴山” の山号を持つ 多聞院 が存在し、下羽田には “安姫山” の名が記された、江戸時代の古文書が残っています。

劔神社・安妃山

この古文書は、以前この山の山麓にあった劔神社の社傳(しゃでん)の一部です。 “安妃山鎮座” と記されており、この山が 安妃山” と呼ばれていたことが分かります。また、すぐ近くの 歌坂の由来 についての記載があり、歌坂の名が “安妃山鐘送り坂” と称されています。

* 歌坂の紹介ページ

下羽田ではこの古文書に倣い、新しく設置する案内板に “安妃山” の表記を用いるようになっており、現在この山の周辺には “安妃山” の案内板が増えてきています。このため “安吉山” と “安妃山” の案内板が混在し、どっちが正しいの?という疑問がが湧いてくると思いますが、両者は一般名とそのバリエーションという形で共存し、どちらも誤りではありません。

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あとひとつ余談になりますが WEB 検索で珍しい情報を見つけました。和泉式部が野寺の鐘の音を歌に詠んだという由来により、雪野山の正式名称は “鐘ヶ岳” であるというものです。

和泉式部が歌を詠んだとされる歌坂は雪野山北西部にあり、この山が “鐘ヶ岳”と呼ばれていた可能性も否定できません。しかし WEB 上には、鐘ヶ岳という呼称についての情報はほとんどありませんので、案内板等で解説されていないか探しているところです。

* 関連情報

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3月 25, 2016

散策路は草花でいっぱい

里山ハイキング

下羽田では毎年 5月頃に町内で参加者を募りハイキングを行っています。少し前の事になりますが 2012年には自然保護指導員をされている森小夜子さんに同行していただき、散策路周辺の草花をはじめとするいろいろな植物の観察を行いました。そして道筋に咲く草花の写真撮影をしていただき、その写真と丁寧な解説文をお送りいただきました。


遊歩道や階段が設けられた里山では、早春からアセビやクロモジ、ツツジが咲き始め、ヤマザクラ・カスミザクラ、桜の花とは思えないウワミズザクラやイヌザクラなど4種類もの桜が咲きます。

水がしみだす湿地では、大変珍しいトウカイコモウセンゴケが見られます。 かわしいピンク色の花に似合わず、やせちで生きていくために小さな昆虫をつかまえて栄養にする食虫植物です。やせ地を好むヘビノボラズは、5月に黄色い花が咲き、秋には真っ赤な実ができます。

では以下の写真をご覧ください。

・ヘビノボラズ – 蛇も登れないトゲがある
・トウカイコモウセンゴケ – 東海地方に多い毛氈苔
・トウカイコモウセンゴケ – 葉のネバネバで小さな虫を捕まえる
・クサイチゴ – 草苺
・クサイチゴ – 野いちごの中で一番おいしい実
・サルトリイバラ – 猿も捕獲できるイバラがある
・下羽田の伝統行事 – 水無月団子
・モチツツジ – とり黐のようにベタベタする
・ウワミズザクラ 上溝桜 – ソメイヨシノの後に咲く
・タカノツメ 鷹の爪 – 若葉は食べられる
・ソヨゴ – 葉が風によく戦ぐ 秋に赤い実ができる
・コバノガマズミ – 秋には赤い実ができる
・ヒメミソハギ – ミソハギに似た色合いの小さな花
・オイタチツボスミレ – 臭い立壺菫 香りがよい
・ニョイスミレ 如意菫 – 紫のスミレが終わる頃に咲く


こうして見てみると、下羽田の里山はなかなかステキですね。雪野山古墳から続く尾根筋の散策道も歩きやすく整備されています。町内の方々、近隣のみなさん、ぜひとも一度散策にお立ち寄りください!

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3月 24, 2016

腰越から大岩山頂あたりの冬景色

腰越登り口から登るとすぐに、最初のビューポイントである腰越山展望台に辿りつきます。そのまま直進すると大岩展望台があり、このあたりの見晴らしは抜群です。

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3月 24, 2016